洛西の三尾三山は、どれかは昔々訪れたようでもあり、しかしやはり未踏の気もして落穂ひろいで冬の京都に足を向けた。
鯖街道の一つの周山街道が、三尾三山の地に通じている。
周山街道とは魅力的な名前だが、周山は明智光秀がこの地を納めたときに付け、由来は殷を滅ぼした周が「岐山」に興り周山はその美名と言われる。
明智光秀の築城した周山城は、街道のかなり先にあるがいつか訪れてみたい。
□高山寺
栂尾の高山寺はいわずと知れた明恵上人の寺で、鳥獣戯画を所蔵することでも有名だ。
なぜこれが高山寺に伝来したのかは不明でよく分からない。
境内は比較的小規模で、上人時代の唯一の遺構で明恵の在所だった国宝の石水院は境内で移築され、清滝川を見下ろす場所にある。
簡素な寝殿造りだが、闊達な空間となっている。
建物内には、有名な明恵上人樹下座禅像のレプリカと縮小された鳥獣戯画が置かれていた。
高山寺の名前の由来となった後鳥羽院宸翰の勅額「日出先照高山之寺」や富岡鉄斎の「石水院」の額も見ものだ。

参道を辿ると上人の御廟がある。外から窺えるだけだが、墓自体は簡素なもののようだった。
明恵は19歳から寂滅の前年の59歳まで書き続けた「夢記」でも有名だが、以前展覧会でそのかな交じりの不思議な書も気に掛かっていた。
上人は8歳で父母を失くし、23歳でゴッホのように右耳を切り落とした。「我ガ死ナムズルコトハ、今日ハ明日ニツグニコトナラズ」と常に言ったという明恵の夢は、窺い知る事は出来ず、再々釈迦の佛蹟を辿る印度への旅を行おうとして果たせなかった思いも、ここに眠っているのだろうか。

石水院に上人が偏愛したと言う狗児の像がある、夢の中には地獄も極楽もあるだろうが、あちらこちらに優しさも垣間見える。
教祖となる訳でもなく教えを大上段に振りかざすわけでもなく、60歳で大往生を遂げたがまことにそれに相応しい場所に栂尾は思われた。

「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり」
俗のあるべきようもまだ見定まらず、既に紅葉が終わり、朽葉が散る参道のひっそりとした気配だけを感じて寺を後にする。

□西明寺
周山街道を少し戻ると清滝川が大きく屈曲して、朱が美しい指月橋を渡ると槇尾の西明寺がある。

寺は空海の弟子の智泉が創建したとされ、智泉と言えば高野山を造営したときに病に倒れ、空海の「亡弟子智泉が為の達嚫の文」がとりわけ有名だ。
哀しい哉 哀しい哉
哀れが中の哀れなり
悲しい哉 悲しい哉
悲しみが中の悲しみなり
哀しい哉 哀しい哉 復哀しい哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉
創建者も知らずに訪れたが、小ぶりな西明寺は、苔むした石灯籠や槙尾の地名の由来ともなったと云われる樹齢700年の槇の木がその歴史の古さを示している。
明恵上人はここにも一年ほど住んでいたようで、本尊の釈迦如来は上人の造顕と伝えられ、真言宗、華厳宗の両方に所縁が深い事になる。

石段から見下ろす清滝川がまことに美しく、紅葉の頃はいかばかりかと思われた。

□神護寺
三山の中で、一番寺域も広い高雄の神護寺は長い石段を上り詰めてようやくのことで到達する。
山門を入ってすぐに明王堂があり、そこに安置されていた空海作の不動明王が、平将門の乱を鎮圧するため関東に出開帳され、その地にこの不動明王を本尊として出来た寺が成田山新勝寺との説明があった。
扁額は七代目の市川 團十カの筆により、成田山縁の役者だ。

この寺は空海が14年間住み、真言密教の道場だったが意外と空海の縁のものは少なく、再建された太子堂や書の世界で知らぬ人はいない灌頂歴名、その灌頂の浄水として空海自らが掘ったと言う閼伽井位だったのは予想外だった。
最澄との書簡の往来で有名な風信帖は当然比叡山に送られており、そこからやはり空海縁の東寺に寄進され今は東寺が所蔵している。

昭和期の建立でまだ色鮮やかな金堂の横の小道を辿ると程なく山道になり、裏山の頂上に神護寺を再建した荒聖文覚上人の墓がある。

文覚は佐渡に流され、さらに対馬に流される途中で没したとされる。
文覚の志をついで再興を完了したのが上覚でその甥が明恵。この伝で明恵は9歳のときに神護寺に入山したという。
文覚は西行との逸話でも有名だ。
井蛙抄に、
「文覚上人は西行をにくまれけり。その故は遁世の身とならば、ひとすじに仏道修行のほかは他事なかるべくに、数奇をたてて、ここかしこにうそぶきあるく条、にくき法師なり。いづこにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねにあらましにて有りけり。・・・あらいふかひなの法師どもや、あれは文覚にうたれんずる面か。文覚こそうたれんずる者なれ」と。
明恵自身も西行との関係が窺われ、西行は明恵が18歳の時に亡くなっているが二人は接点があり、これも深入りすると際限がなさそうだ。
西行は69歳の時の大仏復興への寄進を募る旅で、小夜の中山で「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と詠んだが、明恵は本歌取りで「存らへてとはるべしとはおもひきや 人の情けも命なりけり」と詠んでいる。
文覚の墓の傍らから京都市内を見晴るかすと、歴史と人が幾重にも絡み合い、古人の息吹が風となって耳元に囁くようだった。
三尾三山は巡りめぐって夢の中。