2014年01月30日

「内藤廣展 アタマの現場」

ギャラリー間の「内藤廣展 アタマの現場」に行ってみた。
少し前に新国立競技場についてのザハ・ハディドの案を擁護するかなり支離滅裂な発言で、諸事争論という感じになったが、まあ審査員としての立場だからノーコメントを貫いている安藤忠雄の老獪さに比べれば発言しただけでも良心的と言える。
勿論この展覧会はそのような事には触れることなく、いかにも優等生的なギャラリー間での二度目の展示だった。

「静岡県草薙総合運動場体育館」のプレゼンテーションにかなりのエネルギーが割かれている。
木材を多用する建築家の評判が定着してしまった内藤としてはやはり、この建物もその路線を踏襲している。
登呂の遺跡の住居を思わせるような外観を持つこの建物は、しかし規模は大きいが、あまり興味を惹かない。
同じ木材路線でも手を変え品を変えという隈研吾のスタイルとかなり違い、よく言えば実直で悪く言えば泥臭い。

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「アタマの現場」の一つとして、事務所の本棚、所長のデスク周りが再現されておりこれは、それこそ「頭の現場」で興味津々。
中川幸夫の櫻の書と、ピラネージのローマの地図が一際眼を惹くが、白川静の字訓、字統、常用字解があったのも印象的。石元泰博の写真集は納得だが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」とかスーザン・ソンタグの書もあったり、ホーと思ったりする。

20140129内藤廣展2s-.jpg  20140129内藤廣展3s-  .jpg


中村好文展の時も、蔵書がかなり置いてあったが、拠って来るところを公開することはかなり勇気が要りそうだ。

ワンフロアー上には、過去の作品の模型や材料のサンプルが置かれているが、何故か代表作の茨城県の天心記念五浦美術館のものが見当たらない。
出世作の海の博物館の架構模型の隣に、島根県芸術文化センターの模型があり、実物は未見だがこれはもう空間構成から切妻のデザインから五浦美術館とそっくりで、最初はそのように誤解したほどだ。
二つは併置出来ないのも尤もだ。

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実際に見た内藤の作品では、海の博物館を超えるものは無いように思われる。出世作が最良の作品というのは安藤忠雄と同じだ。

内藤の言う素形とは何だろう、写真家の中平卓馬に「原点復帰」という作品があった。
内藤の素形の更に原点は、きっと生まれ育った住宅で、それは勿論切妻で木造であるに違いない。

再現されたアトリエの本棚に、アタマの中を覗き込むような、眼の部分だけが切り取られた眼光鋭い写真がある、ピカソだろうか、そんな気もするがよく分からない。
常時この眼で、頭の中の原点を覗き込まれているのもかなり辛いが、原点からの逸脱も今の内藤には必要な気もした事だった。
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2013年12月19日

冬の京都の三尾三山

洛西の三尾三山は、どれかは昔々訪れたようでもあり、しかしやはり未踏の気もして落穂ひろいで冬の京都に足を向けた。

鯖街道の一つの周山街道が、三尾三山の地に通じている。
周山街道とは魅力的な名前だが、周山は明智光秀がこの地を納めたときに付け、由来は殷を滅ぼした周が「岐山」に興り周山はその美名と言われる。
明智光秀の築城した周山城は、街道のかなり先にあるがいつか訪れてみたい。

□高山寺
栂尾の高山寺はいわずと知れた明恵上人の寺で、鳥獣戯画を所蔵することでも有名だ。
なぜこれが高山寺に伝来したのかは不明でよく分からない。

境内は比較的小規模で、上人時代の唯一の遺構で明恵の在所だった国宝の石水院は境内で移築され、清滝川を見下ろす場所にある。
簡素な寝殿造りだが、闊達な空間となっている。
建物内には、有名な明恵上人樹下座禅像のレプリカと縮小された鳥獣戯画が置かれていた。

20131212石水院外観s-.jpg  20131212石水院s-.jpg  20131212樹下像s-.jpg

   
高山寺の名前の由来となった後鳥羽院宸翰の勅額「日出先照高山之寺」や富岡鉄斎の「石水院」の額も見ものだ。

20131212勅額s-.jpg  20131212鉄斎額s-.jpg


参道を辿ると上人の御廟がある。外から窺えるだけだが、墓自体は簡素なもののようだった。
明恵は19歳から寂滅の前年の59歳まで書き続けた「夢記」でも有名だが、以前展覧会でそのかな交じりの不思議な書も気に掛かっていた。
上人は8歳で父母を失くし、23歳でゴッホのように右耳を切り落とした。「我ガ死ナムズルコトハ、今日ハ明日ニツグニコトナラズ」と常に言ったという明恵の夢は、窺い知る事は出来ず、再々釈迦の佛蹟を辿る印度への旅を行おうとして果たせなかった思いも、ここに眠っているのだろうか。

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石水院に上人が偏愛したと言う狗児の像がある、夢の中には地獄も極楽もあるだろうが、あちらこちらに優しさも垣間見える。
教祖となる訳でもなく教えを大上段に振りかざすわけでもなく、60歳で大往生を遂げたがまことにそれに相応しい場所に栂尾は思われた。

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「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり」
俗のあるべきようもまだ見定まらず、既に紅葉が終わり、朽葉が散る参道のひっそりとした気配だけを感じて寺を後にする。

20131212高山寺参道s-.jpg  20131212高山寺参道1s-.jpg


□西明寺
周山街道を少し戻ると清滝川が大きく屈曲して、朱が美しい指月橋を渡ると槇尾の西明寺がある。

120131212指月橋s-.jpg  20131212西明寺s-.jpg


寺は空海の弟子の智泉が創建したとされ、智泉と言えば高野山を造営したときに病に倒れ、空海の「亡弟子智泉が為の達嚫の文」がとりわけ有名だ。
    哀しい哉 哀しい哉 
    哀れが中の哀れなり
    悲しい哉 悲しい哉
    悲しみが中の悲しみなり
    哀しい哉 哀しい哉 復哀しい哉
    悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉

創建者も知らずに訪れたが、小ぶりな西明寺は、苔むした石灯籠や槙尾の地名の由来ともなったと云われる樹齢700年の槇の木がその歴史の古さを示している。
明恵上人はここにも一年ほど住んでいたようで、本尊の釈迦如来は上人の造顕と伝えられ、真言宗、華厳宗の両方に所縁が深い事になる。

20131212槇の木s-.jpg  20131212西明寺灯篭s- .jpg


石段から見下ろす清滝川がまことに美しく、紅葉の頃はいかばかりかと思われた。

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□神護寺
三山の中で、一番寺域も広い高雄の神護寺は長い石段を上り詰めてようやくのことで到達する。
山門を入ってすぐに明王堂があり、そこに安置されていた空海作の不動明王が、平将門の乱を鎮圧するため関東に出開帳され、その地にこの不動明王を本尊として出来た寺が成田山新勝寺との説明があった。
扁額は七代目の市川 團十カの筆により、成田山縁の役者だ。

20131212山門s-.jpg  20131212明王堂s-.jpg


この寺は空海が14年間住み、真言密教の道場だったが意外と空海の縁のものは少なく、再建された太子堂や書の世界で知らぬ人はいない灌頂歴名、その灌頂の浄水として空海自らが掘ったと言う閼伽井位だったのは予想外だった。
最澄との書簡の往来で有名な風信帖は当然比叡山に送られており、そこからやはり空海縁の東寺に寄進され今は東寺が所蔵している。

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昭和期の建立でまだ色鮮やかな金堂の横の小道を辿ると程なく山道になり、裏山の頂上に神護寺を再建した荒聖文覚上人の墓がある。

20131212文覚上人墓s-.jpg


文覚は佐渡に流され、さらに対馬に流される途中で没したとされる。
文覚の志をついで再興を完了したのが上覚でその甥が明恵。この伝で明恵は9歳のときに神護寺に入山したという。
文覚は西行との逸話でも有名だ。
井蛙抄に、
「文覚上人は西行をにくまれけり。その故は遁世の身とならば、ひとすじに仏道修行のほかは他事なかるべくに、数奇をたてて、ここかしこにうそぶきあるく条、にくき法師なり。いづこにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねにあらましにて有りけり。・・・あらいふかひなの法師どもや、あれは文覚にうたれんずる面か。文覚こそうたれんずる者なれ」と。

明恵自身も西行との関係が窺われ、西行は明恵が18歳の時に亡くなっているが二人は接点があり、これも深入りすると際限がなさそうだ。
西行は69歳の時の大仏復興への寄進を募る旅で、小夜の中山で「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と詠んだが、明恵は本歌取りで「存らへてとはるべしとはおもひきや 人の情けも命なりけり」と詠んでいる。

文覚の墓の傍らから京都市内を見晴るかすと、歴史と人が幾重にも絡み合い、古人の息吹が風となって耳元に囁くようだった。

三尾三山は巡りめぐって夢の中。
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2013年10月02日

都民の日の庭園巡り

毎年10月1日は都民の日で、東京都関係の美術館や庭園が無料開放される。

東京都には浜離宮恩賜公園、芝離宮恩賜公園、小石川後楽園、六義園、向島百花園、清澄庭園、旧古河庭園、旧岩崎邸庭園、殿ヶ谷戸庭園と管理している有名な9つの庭園があるが、何故か芝離宮と向島百花園は未踏だった。

都民の日をよい機会ということで、出かけてみた。

芝離宮はすぐ傍の浜離宮に比べて規模は小さいものの、あちらこちらに豪快な石組みや異な灯篭もあり、泉水に映る高層ビルの姿も都心ならではのもの。
謎のドルメンのような石柱があって、「この石柱は小田原北条家に仕えた戦国武将の旧邸から運ばれた門柱です。ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室の柱に使われていた」というもっともらしい説明が書かれていたが、本当だろうか。
石の柱の茶室など、見たことも聞いたこともないのだが。

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ともあれ、浜離宮ほど有名でないので人出も少なく、開けた空を見てのんびりするには絶好の場所のように思えた。

向島百花園は、江戸時代の町人で骨董商を営んでいた佐原鞠塢が作ったという異色の庭園だが、文人墨客に愛され、幾多の水害や空襲の被害を乗り越えて今も多くの野草が咲き誇り、丁度秋の七草が盛りだった。
この庭園はとりわけ萩が有名で、萩を詠む句があちこちに掲げられて、いかにも庶民の身近な庭園の伝統が続いている感を受ける。

秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花
                        山上憶良 

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文人墨客の一人として入り口の扁額は蜀山人が揮毫しており、百花園の名称自体は酒井抱一が付けたということだ。
抱一の「夏秋草図屏風」や「月に秋草図屏風」などは何となく百花園の風情をうかがわせる。

庭園内から見えるスカイツリーも、江戸時代から続いた下町の庭園に新しい風景として根付きそうだ。

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2013年08月29日

富弘美術館と足尾

群馬の草木湖に面して建てられている富弘美術館はコンペで選ばれ、金沢の21世紀美術館と全く逆に四角い外郭に多数の正円を内接させて展示スペースを作る空間構成で話題になった。
どんなものかと、見に行ってみた。

平屋の外観はエントランス側にだけ表情があり、よく見ると円と円の接する残余部分が表に表現されている。
内部にも空の部屋という、一部が外部に解放されたコーナーがあり、ここでは他の部屋を外観として円を見ることが出来る。
展示室は大小8つあるが、鑑賞ルートは誘導的になっており、意外と導線が混乱するような事は事は起こらない。
曲線の壁に、絵画を展示することの不合理さは誰しも分る事だが、星野富弘の作品の小さいスケールがそれを救っている。

この美術館は小奇麗で、個人作品の展示に限定しているという事ではその役割は十分果たしている。
しかし正方形と円というコンセプトの実現だけに精力を使い切り、空間的な豊かさや感動は殆ど見当たらない。
何時も写真で見かける、内部空間を暗示した四角の中に丸が配置された屋上の姿は、道を挟んだ駐車場側の斜面をよじ登らないと見ることは出来ない。
空からしか見えないのは、ミニ・ナスカの絵のようで、設計者のヨコミゾマコトの自意識と単純な精神構造をよく表している。

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美術館の運営や作品に眼を向けると、旧館の時代から開館20年目にして既に600万人が訪れており、息の長い人気が続いているという事になる。

詩画作家というネーミングで説明される作者の言葉が添えられた癒し系の作品は、その言葉が書の相田みつをの作品と瓜二つだが、絵よりも言葉の方に気を取られがちになる。
相田みつをは在家で禅を学び、星野富弘は洗礼を受けたクリスチャンと言う事も相似形のように見える。

星野富弘は草花を中心とした静物の絵しか描かない。
岩崎ちひろは、やはり癒し系だが様々な人の絵も描き、メッセージ性の強い「戦火のなかの子供たち」という作品もある。
男性が癒しだけの周りを回遊し、女性がそこから逸脱して綺麗ごとだけでない表現をするのは興味深い。

美術館からわたらせ鉄道で足尾に行くと、100年前の古河工業の迎賓館の掛水倶楽部があり、外から様子を窺った。最近まで使われていた気配のあるテニスコートに面して、これはまだ使われているという書庫がある。
掛水倶楽部の設計者は不明、書庫は明治43年建設なのでこれも100年以上の歴史がある。
掛水倶楽部に隣接して、殆ど人が住んでいない社宅群があり、他の場所にも廃墟となった社宅群が散在しているようだった。
足尾銅山は昭和48年に閉山しているで、この社宅もそれから40年経っていて、暫くすると歴史の仲間入りをする。
わたらせ鉄道の車窓からは、廃墟となった通洞選鉱所も見ることが出来る。
新しい建物よりも、過去が塗り籠められた廃墟が語るものが多い。

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足尾銅山はその公害の歴史も含めて、世界遺産登録を目指しているが、今も公害の廃水処理の作業が続けられており、遺産となる過去と共に現在に連続している過去を抱えている。
この日は足を伸ばせなかった、鉱毒で全ての樹木が枯死した松木渓谷もいつか確かめたいと思われた。

100年後の富弘美術館はどうだろうか。
掛水倶楽部は残るだろうが、富弘美術館が草木湖を望む場所に同じ姿で存在している事を想像するのは難しい。

富弘美術館も含めて、一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒。
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2013年01月11日

川俣正展「Expand BankART」

今年の初参観で、会期末の川俣正展「Expand BankART」 へ。

開催期間中に作り続けられ、未完の姿が完成形と言う崩壊感覚溢れる彼の作品は、国内では披瀝できる場が殆ど無く、これだけ大規模なものを見れることは珍しい。
11月上旬から製作が始められ、川俣は製作完了を待つことなく12月8日にパリに戻っている。正にワークインプログレス。

BankARTの外部に設営された、パレットによる同形のものを少しずつずらしながら配置するインスタレーションは癌細胞が増殖するような不気味さだが、人工物のため意外と整然としており、柴田敏雄が写し出すグロテスクさとよく似ている。

20130110川俣正展2s-.jpg  201301010川俣正展4s-.jpg  20130110川俣正展3s-.jpg


会場内部は1Fは木製パレットによるkawamataホール、2Fは木製サッシによる天井、3Fは藤森照信の高過庵を思わせるような柱に取り付いた小屋、とそれぞれの出し物があるが、ホール以外は力が抜けている。
多分現地で企画構成し、ワークインプログレスと言えども企画が密度の濃さまで至らなかったのだろう。

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幾つかの映像作品もあり、パリのサン・ルイ教会の「椅子の回廊」などはかなり刺激的で、これが本来の川俣かなとも思える。

川俣は木製の材料でインスタレーションを行う事が多く、その理由として加工と入手の容易さをあげているが、あまりにも判りやすいその説明は目眩ましに思える。
生まれた北海道の三笠市の風土と関係がありそうにも思えるが、固執する原体験があるに違いない。

豊洲ドームも、今回の作品群も廃材が利用されている。
豊洲ドームの折は、豊洲の埋立地が関東大震災の瓦礫であることを知り、廃材を使う事を思いついたと。
パリには被災地の廃材によって、木造10メートルの構築物をつくり上げていく計画も進んでいるという。
真新しい材料でなく、廃材を使うのは崩壊感覚に拍車をかける。当然Expand BankARTで東日本大震災の廃材を使う構想もあったのではないか。
それが実現すれば、インスタレーションは現実と虚構の二重の崩壊性を獲得し、重層的な意味を持ちえただろう。
川俣は、岩手プロジェクトで被災地支援も行っているが、Expand BankARTでは、しかし今回は東日本大震災へのメッセージ性は希薄だ。
進行形の重く突き刺さる現実を、虚構がどのようにしても超えられないとの諦観だろうか。

展示の素材として大量に使われている木製サッシは、解体中の近くの海岸通団地から持ち込まれた。
解体現場に立ち寄ると、粉々に砕かれて瓦礫となったものたちは、東日本大震災の無惨な光景と重なり合いどこか涙を流しているようだったが、数本の樹木はかろうじて伐採を免れて残存していた。
木製のサッシは会期末にその寿命を終えるが、樹はきっと軽やかに人々の記憶を留めて生き続ける。

東日本大震災から1年10ヶ月が経った。

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2012年10月25日

杉本そよ美術館

八王子から横浜までの、絹の道とも言われる浜街道の鶴ヶ峰付近を散策していたら、「杉本そよ美術館」と言う控えめな案内板が出ている、家を見つけた。

案内に従って裏手に回るが、極普通の家があるだけで美術館の所在がわからずに立ち去ろうとすると、玄関が開いて、ご夫人に招き入れられた。

このささやかな私設の美術館は、2006年に彼女の作品を展示するために、息女の鈴木さんがご自宅を改修して作られおり、一階と二階に数十枚の作品が展示されている。

20121024杉本そよ美術館1s-.jpg  20121024杉本そよ美術館外観2s-.jpg


杉本そよさんは若い頃に絵を志し、一時中断し多分50歳近くになって創作を再開し作画を続けながら91歳までご存命だった。

20歳そこそこの若描きの作品は、純和風で伝統的な描き方だが、その後日本画の作風は変転し、静物、植物、建物、風景と気持ちの赴くままに描かれているようだった。

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展示室は肉親の作品を公開して、人に知ってもらいたいという気持ちが浸透るように感じられ、生きていた営みを作品を通じて伝えようとしている家族の愛情が漂っていた。

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残念ながら、何の宣伝もしていないので、訪れる人はあまりいないということだったが、作品とともに、記憶の伝え方とそれを守っていく人の志、それらが紡ぎ出す静かな物語を垣間見て、深く考えさせられた。
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2012年07月28日

「青山杉雨の眼と書」展と良寛

東博で今「青山杉雨の眼と書」と言う展覧会をやっている。
上野の都美館と西洋美術館はフェルメール目当てで、暑さにもかかわらず長蛇の列だが東博はひっそりとしている。

青山杉雨の事は殆ど知らなかったが、東博で個人の書を特別展で扱うのは西川寧以来二人目と言う事だ。
編年体のように展示されている作品は、一作一面貌と言われる次々変貌する作風をよく表しているが、70歳を過ぎてからの作品が素晴らしい。

とりわけ印象に残ったのが「書鬼」と言う作品だ。
この作品は最晩年の最後の大作で、81歳の死の前年に子息に身体を支えて貰って書いたものとされるが、死の床での裂帛の気配が書の周りに漂っている。

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一つの書だけでも、その人の生き様を語りつくす事が出来るということだ。

常設展には、時々思いもかけぬ書の作品が展示される。
良寛の枯れかじけた自画賛「貴賎老少唯自知」、画は髑髏。

20120727良寛画賛s-.jpg

良寛の最後は 貞心尼との相聞で知られるが、髑髏の画は何時のものだろうか。
青山杉雨の最後と良寛の最後は書において対比的だが、何れもきりきりと人の心を騒がせる。
 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
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2012年07月17日

浜降祭

関東三大奇祭の一つの茅ヶ崎の浜降祭は、その由来は諸説あるようだが、今は開催日は変遷を経て海の日に行われている。

暑い夏はやはり祭りと言うことで、早朝からの祭りに繰り出してみた。

祭事が執り行われる砂浜の会場には結界の竹鳥居が立てられ、神輿はそこから入場し、人で溢れる式場を練り歩きながら、紺の幟がはためく斎竹で区切られた場所に着輿する。
38基の神輿が整然と並び、紺の幟が富士を背にはためく様は壮観だ。

20120716竹鳥居s-.jpg  20120716浜降祭1s-.jpg  20120716浜降祭2s-.jpg


夫々の神輿に御祓いが滞りなく執り行われたあと、各神輿が順次祭場を発輿し、寒川神社の五色の神旗も翻る。

20120716寒川神社神旗s-.jpg


かなり荒れていた海だが「どっこいどっこい」の威勢のいい掛け声とともに、思い切った神輿が禊に海に入る様は噂に違わぬ豪快さ。

担ぎ手には女性もかなり見受けられ、以前のような荒っぽさは減っているというが、どの神輿が、最後まで海に入り続けるかの駆け引きもあるらしく、町々の意地の張り合いも興味深い。

20120716浜降祭禊2s-.jpg  20120716浜降祭海中禊s-.jpg  


日本全国、神輿が海中禊をする祭りは数多いが、その圧倒的な数と富士を背景にする絶好のロケーションはここに勝るものはないだろう。
相模国一之宮寒川神社の神官に八方除の御祓いを受けた神輿と人々は、今年のこれからの運気は間違いなさそうだった。

梅雨もあけて、見計らったように赫々たる本当の夏がやってきた。
ラベル:浜降祭 茅ヶ崎
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2012年05月19日

根津美術館、燕子花と隈研吾

根津美術館の新館はもう竣工後3年経つのに、何故か機会が無く、ようやく足を運んだ。
100年ぶりの再会という、根津の「燕子花図屏風」とメトロポリタンの「八橋図屏風」。

2008年に、東博で大琳派展が開かれてこの時は光琳の本歌取りの酒井抱一の「八ツ橋図屏風」を見ているが、あまり鮮明な記憶が無いので、今回は本歌をしかと見届けるつもりで。

燕子花図屏風は光琳44歳の作、八橋図屏風はその10年後の作とされているが、光琳は50代後半で亡くなっているので八橋図は晩年の作といえる。
余分なものを切り捨てた抽象性と、少ない色使いの燕子花図が八橋図を圧倒する。
10年経って、より説明的な画を書いた理由は不明だが、燕子花図より抽象性が薄れ色も増えた花の姿、決して画に有効な効果を与えていない、たらしこみの橋の表現。
一作品で見れば、八橋図屏風はそれなりで、さらに酒井抱一のものと比べれば、優品かも分からないが、比べることが出来てしまうというのは、別の意味で残酷なことではある。

 irises.jpg  eightbridges.jpg  酒井抱一八橋図.jpg


伊勢物語も東下り第九段・その壱の八橋から進みその三に、「名にし負わば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
これにちなんでつけられた言問橋から、さらに歪曲された東武鉄道の業平橋の駅名は、いまは「とうきょうスカイツリー駅」という仮名とカタカナの恥ずかしい駅名に変わってしまった。
東武鉄道の社長だった初代根津嘉一郎のコレクションが根津美術館の礎であるわけで、燕子花図屏風は在原業平を媒介にしてスカイツリーと繋がっている事になるが、この所縁には墓の中の根津嘉一郎も苦笑しているだろう。

さて、隈研吾だが、巨大になりがちな都会の美術館を和風の屋根で分節化する手法は、手馴れたもののように見受けられた。
低い軒の出は、馬頭美術館や那須歴史探訪館と同じだが、プロポーションはより洗練されている。
アプローチは、馬頭は那須は材料として木だったが、今回は生きた竹も加わって美術館への期待を膨らませる。
しかし、エントランスの開け放たれた空間に出ると何故かそこに全く無粋な駐車場が悪夢のように併設されており、これは何かの間違いに違いないと思いたい。

内部空間のディテールにさほど見るべきものは無い。というか、隈研吾はディテールには興味が無いのだろう、彼の建築では美は細部に宿らない。


20120517根津美術館外観s-.jpg   20120517根津美術館アプローチs-.jpg  20120517根津美術館エントランスs-.jpg


燕子花図屏風は、毎年美術館の庭園の燕子花の見ごろに合わせて公開されており、庭園の花は明るい日差しの中で震災で中止された二年越しの「燕子花図屏風」と「八橋図屏風」の出会いに一番の彩を添えていた。

20120517根津美術館燕子花s-.jpg


在原業平は56歳で亡くなり、 光琳の八橋図は54、5歳の頃に描かれたとされている。
伊勢物語の終段は
 つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふけふとは思はざりしを

最晩年の光琳が、業平に思いを致す事もあったに違いない。
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2012年04月11日

花の雲 鐘は上野か浅草か

江戸に幕府公認の時の鐘は10あり、日本橋石町、浅草寺、上野山内、本所横川町、芝切通、市ヶ谷亀岡八幡、目白下新長谷寺、四谷天龍寺、赤坂田町(初め圓通寺から成満寺)、下大崎寿昌寺と言われている。
目黒祐天寺と巣鴨子育稲荷がこれらに加わって12、これらから3つが除外されて江戸後期には9つ。
そのうち日本橋石町、上野寛永寺、浅草寺弁天山、赤坂圓通寺、四谷天龍寺、目黒祐天寺の6か所の鐘が現存している。

「花の雲 鐘は上野か浅草か」、芭蕉のこの句に誘われて二つの時の鐘を巡りつつ桜狩を兼ねて歩いてみる。

上野の時の鐘は、韻松亭という茶店の敷地内にあり、史跡として厚遇はされていない。
時の鐘自体は以前は寛永寺のものだったが、今の所属はどうなのか不明。鐘も一日三回撞かれているらしいが誰が撞いているのだろうか。
芭蕉の句はここの鐘を詠んだと言われるが、かろうじて、桜の景観を添える事ができる。

20120410上野時の鐘s-.jpg


東博の敷地には本館前に見事なヨシノシダレがあるが、まだ早い。
「博物館でお花見を」の桜にちなんだ展示も例年と同じなのは、良いのか悪いのか。国宝室は恒例の花下遊楽図屏風。
例年今の時期公開される庭園の、若葉も添えるオオシマサクラと盛りのエドヒガンサクラが目を楽しませてくれる。花の下は現代の花下遊楽図。

20120410東博ヨシノシダレs-.jpg  20100327花下遊楽図屏風s-.jpg  20120410東博庭園桜s-.jpg


浅草は、震災復興支援の名目で公開されいる浅草寺の伝法院の庭を拝観。
小堀遠州の作とされ明治までは秘園だったが、昨年国の名勝に指定され、それまでは未公開だったものをそれを期に、時々公開されるようになった。

喧騒の仲見世が直ぐ隣にはあるとは思えない雰囲気で、おりしも桜が満開、五重塔に加えて景観にスカイツリーも加わってまことに春に相応しい。
特別展示室では、見事な寺仏の大絵馬が楽しめる。

庭園の今後の公開は未定との事だったが、浅草の名所として今後も多くの人楽しませてもらいたい。

20120410伝法院s-.jpg  20120410伝法院結界s-.jpg  20120410伝法院蹲s-.jpg


さて、お目当ての時の鐘は境内の弁天山にあり、足元には芭蕉の「くわんをんのいらか見やりつ 花の雲」の句碑がある。この句は芭蕉43歳、同じ花の雲でも、時の鐘の句は44歳。
この時の鐘も、現在も午前6時に時を知らせているという。

同じく境内の奥中庭園には宗因、芭蕉、其角の三匠句碑があり、こちらには時の鐘の句が彫られている。

 ながむとて花にもいたし頸の骨   宗因
 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉
 ゆく水や何にとどまるのりの味   其角

20120410浅草寺時の鐘s-.jpg  20120410三匠句碑s-.jpg


浅草寺の時の鐘は1692年に、上野の時の鐘は1666年に作られている。芭蕉の時の鐘の句は1687年に詠まれているので辻褄が合わないがそれはそれ。
花見に野暮は無しで、〆にはやはりスカイツリーか。

酔眼ではないのだが、噂の通り塔が傾いて見える。
低層部の三角形から上部の円形に変化してゆくために、そう見えるという事で実際に塔が傾いている訳ではないが、ざらりとした不快感が残り、あまり気分のいいものではない。

これも隅田川の桜の潔さに免じて、目をつぶる事にした。
春のうららの隅田川。

20120410隅田川とスカイツリーs-.jpg  20120410スカイツリーs-.jpg   
posted by 遊戯人 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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