2011年03月09日

渡邊洋治の旧第三スカイビル

軍艦マンションの名前で有名な旧第三スカイビルは、「GUNKAN 東新宿ビル」として再生し、その再出航と銘打ったイベントの見学会に行ってみた。

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このビルは鬼才とも狂気の建築家とも言われた渡邊洋次が設計し、今の微細さを競い合うようなひ弱な建築とは全く異なり、ただ建築に自分の情念を迸り出す事だけを目的として設計され、それが疑問の余地なく許された類稀な時代の置き土産だ。

彼の設計事務所では日常的に暴力が振るわれ、血が流れているのは日常の風景だったと言う逸話もある。
ものを表現して、怨念ともいえる情念を実体化するにあたっては当たり前の行為だろう。

渡邊は帝国海軍出身でこのビルが、そのときのオマージュであることは容易に想像できる。
ペントハウスは隠喩もへったくれもなく、船のブリッジそのものであり、高架水槽はまるで魚雷のようにそこにに抱えられている。

ビルの外装は再塗装されて、少し風化しかけていた外観を一新している。
銀白に鈍く輝いていた外装は、当り障りのない毒気を抜かれた鼠色に塗り替えられ、テナントスペースも白一色になっている。
しかし、噴出した情念は色で宥めるには手強すぎ、変わる事のない形態は40年経った今も渡邊洋次の咆哮を伝え続ける。

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ユニット化された外観を、モダニズムという耳障りの良い系譜の延長でコルビジェから吉阪を経て渡邊洋治を語る事は全くふさわしくない。
潜んでいた異形のものがコルビジェではでロンシャンに顕れ、吉阪では大学セミナーハウスに顕れ、渡邊では先達の伏流水だったものが、当初から赫々と明示的に奔流する。

現在、日本郵船歴史博物館で「ル・コルビジが目指したもの 船→建築」と言う展覧会が五十嵐太郎の監修で開催されているが、軍艦ビルは見事に素通りされていた。
このビルは気の利いた言葉では語れない。

渡邊洋治は、丹下の都庁はとっくに解体されたが俺のビルは残っているぜと、墓の中でほくそ笑んでいるに違いない。
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2011年03月06日

戦艦三笠

戦艦三笠を横須賀に見に行った。

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言わずと知れた日露戦争のバルチック艦隊との日本海海戦での旗艦で、この海戦での秋山真之の七段構えの作戦や、東郷平八郎の敵前大回頭など逸話に事欠かない。

迂闊な事に行って見て初めて、三笠は水に浮かんだ船ではなくて陸上に固定されている事を知った。
日本海海戦後は佐世保港内で爆破沈没、ワシントン条約で廃艦が決定。
さらに関東大震災での大浸水をへて、その後の保存運動の高まりで保存が決定したのは大正14年で、てっきり、太平洋戦争後の連合軍が意趣返しに固定化したものと思っていたが、下甲板に土砂やコンクリートを注入し二度と海に浮かぶ事の無い記念碑としたのは日本政府だった。

太平洋戦終戦は上部構造物は取り払われ、アメリカ軍のダンスホールや水族館が設置され、さらに金属部分は盗難にあい無残な様子だったという。
その後、国民的な復元運動が起こり、昭和36年に復元された。

従って、今の上甲板の構造物の威容は全てレプリカで、厚さ35cmを越える無垢の鋼板で守られていた司令塔も叩くと、板金細工ペコペコというむなしい音がする。

艦内は展示スペースとなっていて部分的に船室などが再現されており、展示スペースでは、東郷平八郎、乃木希典、秋山真之、広瀬武夫などの日露戦争ゆかりの人々の資料を見ることが出来る。

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館内の復元された施設や、日露戦争の説明パネルよりも、一番目を引いたのは関係した軍人の書だ。

たまたま、「日露戦争に見る武士道」という特別展が行なわれていて、書を含めて乃木希典の資料もかなりあった。
乃木希典は司馬遼太郎の作品では旅順攻略でいたずらに兵を死なせた無能極まる将とされているが、一方ではその風貌と明治天皇への殉死により神格化もされていて、実像は分からない。
司馬が唯一讃えているのは、詩人としては一級の才能に恵まれていたという事だ。

常設部分に東郷の書や秋山、広瀬の書簡、メモが展示されていた。
東郷の書は日露戦争開戦の有名な「皇國興廢在此一戦 各員一層奮勵努力」が揮毫されていた。
この書を晩年にいたるまであちこちに残しているようだが、どのような思いで書いたのか。

司馬が褒めた、自詩を揮毫した乃木の書は王羲之の行書風だ。
広瀬の書簡はいかにも、朴訥な字で、危険を顧みず部下の生命を案じて被弾して戦死したと言う人柄がにじみ出る。

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この三人はいずれも軍神となったが、その死に様を考えると複雑な感情が沸き起こる。
一万五千トンの巨体が記念艦として残り続ける期間と、三軍神の書が残り続ける期間とどちらが長いか。
抽象化された軍神はその裏にある、残酷な血まみれの記憶も白い晒された骨のようになり、希薄化し、危うく美しいもののよう見えてしまう事になる。

それは三笠の姿が、厳密に最高度の機能性だけを求めて構成されているが故に、殺戮の機械でもあるにもかかわらず、人々を感動させるに足る美しさを持ってしまっているのと同じ事かもしれない。

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三軍神が稀にしか思い出されない今の世の中は、多分良い時代なのだろう。
NHKで放映された司馬遼太郎の「坂の上の雲」効果で、三笠の見学者は年15万人に増えているという。

見学を終えた15万人は、何を胸に残して船を下りるのか。
それは、二度と水に浮かぶことのない三笠のあずかり知らぬところだろう。
posted by 遊戯人 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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