2011年07月27日

菅江真澄を詣でる

菅江真澄は、宝暦4年(1754年)三河に生まれ、29歳で理由不明の出奔をして、各地を放浪。多岐にわたる民俗学的著作を残しながら、特に東北に多くの足跡を残している。
常被りとも言われて、生涯に亘って頭巾を身から離さず、南部藩の隠密とも言われたり謎も多い人物だ。

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旅する巨人と称された宮本常一は、東北を訪れた時に真澄の墓を詣で、「宮本常一 写真・日記集成」で目にしたその写真が印象的だった。
宮本は菅江真澄遊覧記全五巻を翻訳したのも、民俗学的価値はさることながら、旅を通して共通の視点を持つ彼が菅江真澄に込めていただろう思いを察することが出来る。

宮本常一には及びもつかないが、秋田に行った折に、江戸時代の歩く達人の墓だけを詣でるために足を運んだ。

墓は、羽州街道沿いの出羽の柵と言われた秋田城にほど近い、寺内という場所にある。
墓の横には市の説明板が立てられているが、一つだけ西向きに立っている墓の扱いは粗末に見受けられた。

20110704菅江真澄墓2s-.jpg  20110704菅江真澄墓1s-.jpg


真澄は二十代から七十代まで、流浪の旅を送り、墓には「卆年七十六七」と彫られていて、正確な年齢もわからない人生だった。
しかし人々には好かれたらしい。

生涯妻を持たなかったが、漂白の生活は孤独であっても不幸であったわけではない。

柳田国男は「斯んな寂しい旅人が一人あるいていたのである」と書いているというが、そうだろうか。
きっと貫き通した孤独は、笑みに満ちた孤独だっただろうと思い、手を合わせて墓を後にした。
タグ:菅江真澄
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2011年07月13日

象潟

象潟を訪れた。
以前象潟の鉾立から鳥海に登り、吹浦に下った。残念ながら今回は見ることが出来ない。
串田孫一が「もう登らない山」という本を書いていた、鳥海はもう登らない山かもしれない。

九十九島・八十八潟の象潟は不思議な地名だ。
昔は蚶方といい、蚶(キサ)とは蚶貝の事であり、蚶が沢山採れる地方の意味で蚶方→蚶潟→象潟となったという説があるがどうだろう。
象潟の名刹蚶満寺は蚶が満る所から蚶満寺とも云われたというが、司馬遼太郎が言う蚶方の方が万に変わり更に満という説ももっともらしい。

芭蕉が訪れたのは1689年で(元禄2年)その後1804年(文化元年)に象潟地震があり、2mほども土地が隆起して芭蕉の見た風景は失われたのは良く知られる所だ。

ここも能因法師の後を西行が訪ね、西行の跡を芭蕉が訪ねるという構図が見事なほど鮮明だ。


芭蕉は西行の跡を辿るが、まず能因法師が3年間幽居したという能因島。

 象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、・・・(奥の細道)

  世の中はかくても経けり蚶潟の 海士の苫屋をわが宿にして (能因法師)

能因法師の幽居は怪しいが、能因島には島の名前を記した碑が立っている。

20110702象潟s-.jpg  20110702能因島s-.jpg


奥の細道で芭蕉は、蚶満寺に向かう。ここは西行。

 むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
 江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。(奥の細道)

   蚶方の桜は波に埋もれて 花の上漕ぐ海土の釣り舟 (西行)

桜の老木は無く、西行法師の歌桜という何十代目かの若木があった。 
西行は二度東北を旅しており、次の歌も二題話か。

  松島やおしまの月はいかならん ただきさかたの秋の夕ぐれ (西行)

 此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に盡て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり(奥の細道)

鳥海も見えず、それらしき方丈は見当たらなかったが、蚶満寺は神功皇后を乗せた船が三韓征伐のあと漂着し、応神天皇を生み終えたという伝説があり、山号も皇后山干満珠寺。
開山者は、これも東北ではなじみの深い慈覚大師円仁。

蚶満寺に舟つなぎ石が残っており、これはありふれた物でなく、神功皇后の乗った船を繋いだ石であるとすれば、畏れ多い事ではある。

20110702蚶満寺参道s-.jpg  20110702舟つなぎの石s-.jpg


さて、芭蕉だが、
 松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟や 雨に西施がねぶの花 (奥の細道)

あいにく、空は晴れ渡り、合歓の花も終わっていた。
しかしこの一句で、西施の故郷の中華人民共和国浙江省諸曁市と象潟は姉妹都市、松島とも姉妹都市、象潟のあるにかほ市の市の花は合歓の花。

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象潟は 晴れて西施は見当たらず、風が吹き抜けていた。

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2011年07月11日

気仙沼の凍った時間

今日で震災から4ヶ月が経った。
原発の収束は見えないが、ニュースはもっぱら復興にシフトしてことさらに明るさを装っている。
そんな中、何が本当なのか、何が起きているのか確かめてみたい思いから数日前、気仙沼を訪れた。

気仙沼の駅は高台にあり、近所では地震の被害も津波の被害も殆ど見受けられず何事も無いような日常だが、港に降りて行くに連れて少しずつ様相は変わってくる。
港は津波の被害で1階が破壊された建物が大部分で、信号すらまだ復旧していないが、瓦礫は綺麗に片付けられ、時間を掛ければ復興は確実な状況が看て取れた。

港には神社のある小さな岬があり、そこを回り込んで鹿折地区という所に足を踏み入れると状況は一変する。

地獄は人の心の中にあるが、、気仙沼で地獄は眼前にありしかも深く静かに進行していた。
映像がニュースから消え失せても、地獄のような状況は消え失せている訳では決して無い。

流れてきて放置されたままの巨船、折り重なった車、破壊された工場、人の営みがあったとは信じられない姿に変わった住宅、そこに暮らていた方々の生活の匂いのする様々なもの。
一瞬にして命を断ち切られてしまった人々の、渦巻くような重い霊の気配が青い空の底に漂っている。

20110704気仙沼1s-.jpg  20110704気仙沼2s-.jpg


震災当時の映像を見直してみると、その時からこれらの状況は今まで殆ど変わっていないことが確認できた。
誰かが持ち主のいない車に時計を置き、3時31分で止まっている。
何気なく写した時計は2時46分で止まっている。
後にこの時間がそれぞれ、津波に襲われた時間、地震が起きた時間であることを知り言葉が出なかった。

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3月11日のこの時から全ての時間は凍りつき、歩みを止め、悲しみだけが澱のように重みを増して沈潜している。

こういう状況は気仙沼だけで無く、何百という地域で同じように進行しているに違いない。

「頑張ろうニッポン」のキャッチフレーズは薄ら寒く、空には悲しみの風が吹き抜ける。
全ては自分の想像の域を超え、気仙沼で心身ともにズタズタになりながら、せめても出来ることは、人々の失われた記憶を深く悲しむ事だけだと思えた。
あらゆる日常性や秩序が消滅した時に、残るものは記憶の狭間にある光景だけだ。

グーグルが被災地の状況をアーカイブするプロジェクトを開始した。それは気仙沼から始まるという。
いずれは、どの地域も遅かれ早かれ復興に進むだろうが、綺麗に再整備されるであろう町は記憶を伝えない。
悲惨さから目を背けることも一つのありようだし、悲惨さに身を委ねる事も一つの生き方だ。
良寛の「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候」が身近に感じられる。

このblogでは、言葉で伝え切れない様相を、せめても画像で伝えたい

気仙沼の刻むことを止めた時間の中で、3月11日の漆黒の闇の海の底からの無数の慟哭の声を感じながら、あてども無く彷徨よった。
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