2012年05月19日

根津美術館、燕子花と隈研吾

根津美術館の新館はもう竣工後3年経つのに、何故か機会が無く、ようやく足を運んだ。
100年ぶりの再会という、根津の「燕子花図屏風」とメトロポリタンの「八橋図屏風」。

2008年に、東博で大琳派展が開かれてこの時は光琳の本歌取りの酒井抱一の「八ツ橋図屏風」を見ているが、あまり鮮明な記憶が無いので、今回は本歌をしかと見届けるつもりで。

燕子花図屏風は光琳44歳の作、八橋図屏風はその10年後の作とされているが、光琳は50代後半で亡くなっているので八橋図は晩年の作といえる。
余分なものを切り捨てた抽象性と、少ない色使いの燕子花図が八橋図を圧倒する。
10年経って、より説明的な画を書いた理由は不明だが、燕子花図より抽象性が薄れ色も増えた花の姿、決して画に有効な効果を与えていない、たらしこみの橋の表現。
一作品で見れば、八橋図屏風はそれなりで、さらに酒井抱一のものと比べれば、優品かも分からないが、比べることが出来てしまうというのは、別の意味で残酷なことではある。

 irises.jpg  eightbridges.jpg  酒井抱一八橋図.jpg


伊勢物語も東下り第九段・その壱の八橋から進みその三に、「名にし負わば いざ言問はん都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
これにちなんでつけられた言問橋から、さらに歪曲された東武鉄道の業平橋の駅名は、いまは「とうきょうスカイツリー駅」という仮名とカタカナの恥ずかしい駅名に変わってしまった。
東武鉄道の社長だった初代根津嘉一郎のコレクションが根津美術館の礎であるわけで、燕子花図屏風は在原業平を媒介にしてスカイツリーと繋がっている事になるが、この所縁には墓の中の根津嘉一郎も苦笑しているだろう。

さて、隈研吾だが、巨大になりがちな都会の美術館を和風の屋根で分節化する手法は、手馴れたもののように見受けられた。
低い軒の出は、馬頭美術館や那須歴史探訪館と同じだが、プロポーションはより洗練されている。
アプローチは、馬頭は那須は材料として木だったが、今回は生きた竹も加わって美術館への期待を膨らませる。
しかし、エントランスの開け放たれた空間に出ると何故かそこに全く無粋な駐車場が悪夢のように併設されており、これは何かの間違いに違いないと思いたい。

内部空間のディテールにさほど見るべきものは無い。というか、隈研吾はディテールには興味が無いのだろう、彼の建築では美は細部に宿らない。


20120517根津美術館外観s-.jpg   20120517根津美術館アプローチs-.jpg  20120517根津美術館エントランスs-.jpg


燕子花図屏風は、毎年美術館の庭園の燕子花の見ごろに合わせて公開されており、庭園の花は明るい日差しの中で震災で中止された二年越しの「燕子花図屏風」と「八橋図屏風」の出会いに一番の彩を添えていた。

20120517根津美術館燕子花s-.jpg


在原業平は56歳で亡くなり、 光琳の八橋図は54、5歳の頃に描かれたとされている。
伊勢物語の終段は
 つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふけふとは思はざりしを

最晩年の光琳が、業平に思いを致す事もあったに違いない。
posted by 遊戯人 at 23:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 観る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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