■頤和園
北京の中心街から20km程度の距離にある頤和園は、降り止んだ雪の中、薄墨を流したような靄の中で待っていた。

乾隆帝がその母親の誕生日を祝うために築かせ、その後破壊されたが西太后がこよなく愛し、軍費を流用してまで再建した頤和園は、中国に現存する最高、最大規模の皇宮庭園。
広大な人工の昆明湖、それを掘った土で作った万寿山。730mに及びぶ8000幅もの絵が描かれた西太后のための長廊。
これらを何事もなく作り上げてしまう中国の権力者の欲望は、想像の彼方にある。

皇帝の執政の為の仁寿殿内の玉座の後ろには、226の書体で「寿」の字が書かれている。
仁寿殿の名称は、論語の「知者は楽、仁者は寿」から由来している。どちらも難しそうだ。
西太后が暮らした楽寿堂の前には銅製の花鹿、仙鶴、大瓶が並んでいた。
これは「六合太平(=天下泰平:六合は天下・宇宙・上下・東西南北の六つの空間)」の漢字の発音にちなんで置かれているものとか(鹿鶴大瓶=六合太平)。
謎掛けのような語呂合わせも極まるが、中国三大悪女の一人の西太后が設けたものかどうか。


中国の宇宙観が散りばめられ、あらゆる所に謂れがあり、殆ど個人の為だけに作られた桃源郷のような景観と施設。
しかし、頤和園の「仁者は寿(ながし)」と願った光緒帝は34歳で西太后に毒殺された。
六合太平と願ったのは、果たして西太后なのかどうかも、雪の頤和園は何も語らない。
■八達嶺長城
始皇帝が作った事が始まりの万里の長城は、その後総延長が8000kmを越え、天安門広場と同じに、中国のシンボルとして様々な画像で流される。



北の蛮族の匈奴、蒙古等への恐怖で作られ、北に向けて銃眼を持つ長城は、工事で困苦のうちに死んだ膨大な人々が城壁に生き埋めにされた。
明の時代に強化されたが、その長城は明の内紛に乗じて女真族の支族である満州族に、易々と打ち破られる。
どの時代でも、鉄壁の守りはありえる筈もなく、綻びる原因は治世者と政治の紛争だ。
嶺を越え、谷を越え、蛇がうねる様なその姿は思いのほかに優美にも見えたが、歴史の重く無残な記憶がその下に埋もれている。
オバマ大統領も18日に登り、月並みだが「万里の長城は非常に雄大だ、中国の悠久な歴史を偲ぶことができる」と語ったという。
悠久の歴史は、万里の長城においては、戦乱と人々の苦難の歴史なのだ。