2013年12月19日

冬の京都の三尾三山

洛西の三尾三山は、どれかは昔々訪れたようでもあり、しかしやはり未踏の気もして落穂ひろいで冬の京都に足を向けた。

鯖街道の一つの周山街道が、三尾三山の地に通じている。
周山街道とは魅力的な名前だが、周山は明智光秀がこの地を納めたときに付け、由来は殷を滅ぼした周が「岐山」に興り周山はその美名と言われる。
明智光秀の築城した周山城は、街道のかなり先にあるがいつか訪れてみたい。

□高山寺
栂尾の高山寺はいわずと知れた明恵上人の寺で、鳥獣戯画を所蔵することでも有名だ。
なぜこれが高山寺に伝来したのかは不明でよく分からない。

境内は比較的小規模で、上人時代の唯一の遺構で明恵の在所だった国宝の石水院は境内で移築され、清滝川を見下ろす場所にある。
簡素な寝殿造りだが、闊達な空間となっている。
建物内には、有名な明恵上人樹下座禅像のレプリカと縮小された鳥獣戯画が置かれていた。

20131212石水院外観s-.jpg  20131212石水院s-.jpg  20131212樹下像s-.jpg

   
高山寺の名前の由来となった後鳥羽院宸翰の勅額「日出先照高山之寺」や富岡鉄斎の「石水院」の額も見ものだ。

20131212勅額s-.jpg  20131212鉄斎額s-.jpg


参道を辿ると上人の御廟がある。外から窺えるだけだが、墓自体は簡素なもののようだった。
明恵は19歳から寂滅の前年の59歳まで書き続けた「夢記」でも有名だが、以前展覧会でそのかな交じりの不思議な書も気に掛かっていた。
上人は8歳で父母を失くし、23歳でゴッホのように右耳を切り落とした。「我ガ死ナムズルコトハ、今日ハ明日ニツグニコトナラズ」と常に言ったという明恵の夢は、窺い知る事は出来ず、再々釈迦の佛蹟を辿る印度への旅を行おうとして果たせなかった思いも、ここに眠っているのだろうか。

20131212明恵上人廟s-.jpg


石水院に上人が偏愛したと言う狗児の像がある、夢の中には地獄も極楽もあるだろうが、あちらこちらに優しさも垣間見える。
教祖となる訳でもなく教えを大上段に振りかざすわけでもなく、60歳で大往生を遂げたがまことにそれに相応しい場所に栂尾は思われた。

20131212狗児s-.jpg


「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり」
俗のあるべきようもまだ見定まらず、既に紅葉が終わり、朽葉が散る参道のひっそりとした気配だけを感じて寺を後にする。

20131212高山寺参道s-.jpg  20131212高山寺参道1s-.jpg


□西明寺
周山街道を少し戻ると清滝川が大きく屈曲して、朱が美しい指月橋を渡ると槇尾の西明寺がある。

120131212指月橋s-.jpg  20131212西明寺s-.jpg


寺は空海の弟子の智泉が創建したとされ、智泉と言えば高野山を造営したときに病に倒れ、空海の「亡弟子智泉が為の達嚫の文」がとりわけ有名だ。
    哀しい哉 哀しい哉 
    哀れが中の哀れなり
    悲しい哉 悲しい哉
    悲しみが中の悲しみなり
    哀しい哉 哀しい哉 復哀しい哉
    悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉

創建者も知らずに訪れたが、小ぶりな西明寺は、苔むした石灯籠や槙尾の地名の由来ともなったと云われる樹齢700年の槇の木がその歴史の古さを示している。
明恵上人はここにも一年ほど住んでいたようで、本尊の釈迦如来は上人の造顕と伝えられ、真言宗、華厳宗の両方に所縁が深い事になる。

20131212槇の木s-.jpg  20131212西明寺灯篭s- .jpg


石段から見下ろす清滝川がまことに美しく、紅葉の頃はいかばかりかと思われた。

20131212清滝川s-.jpg


□神護寺
三山の中で、一番寺域も広い高雄の神護寺は長い石段を上り詰めてようやくのことで到達する。
山門を入ってすぐに明王堂があり、そこに安置されていた空海作の不動明王が、平将門の乱を鎮圧するため関東に出開帳され、その地にこの不動明王を本尊として出来た寺が成田山新勝寺との説明があった。
扁額は七代目の市川 團十カの筆により、成田山縁の役者だ。

20131212山門s-.jpg  20131212明王堂s-.jpg


この寺は空海が14年間住み、真言密教の道場だったが意外と空海の縁のものは少なく、再建された太子堂や書の世界で知らぬ人はいない灌頂歴名、その灌頂の浄水として空海自らが掘ったと言う閼伽井位だったのは予想外だった。
最澄との書簡の往来で有名な風信帖は当然比叡山に送られており、そこからやはり空海縁の東寺に寄進され今は東寺が所蔵している。

20131212太子堂s-.jpg


昭和期の建立でまだ色鮮やかな金堂の横の小道を辿ると程なく山道になり、裏山の頂上に神護寺を再建した荒聖文覚上人の墓がある。

20131212文覚上人墓s-.jpg


文覚は佐渡に流され、さらに対馬に流される途中で没したとされる。
文覚の志をついで再興を完了したのが上覚でその甥が明恵。この伝で明恵は9歳のときに神護寺に入山したという。
文覚は西行との逸話でも有名だ。
井蛙抄に、
「文覚上人は西行をにくまれけり。その故は遁世の身とならば、ひとすじに仏道修行のほかは他事なかるべくに、数奇をたてて、ここかしこにうそぶきあるく条、にくき法師なり。いづこにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねにあらましにて有りけり。・・・あらいふかひなの法師どもや、あれは文覚にうたれんずる面か。文覚こそうたれんずる者なれ」と。

明恵自身も西行との関係が窺われ、西行は明恵が18歳の時に亡くなっているが二人は接点があり、これも深入りすると際限がなさそうだ。
西行は69歳の時の大仏復興への寄進を募る旅で、小夜の中山で「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と詠んだが、明恵は本歌取りで「存らへてとはるべしとはおもひきや 人の情けも命なりけり」と詠んでいる。

文覚の墓の傍らから京都市内を見晴るかすと、歴史と人が幾重にも絡み合い、古人の息吹が風となって耳元に囁くようだった。

三尾三山は巡りめぐって夢の中。


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2012年01月12日

小幡散歩

上州の甘楽町にある小幡は、織田信長の次男織田信雄から八代に亘り織田氏が治めた水の豊かな小さな城下町だ。

美称のようにも思える、甘楽という曰くありげな名前の出自も、半島からの渡来人のカラ(韓=加羅)の由来とする説もあり歴史を感じさせる。

上信電鉄の上州福島駅から、道を辿る途中に鎌倉街道の標識があって気に掛かるが、調べても未だに不明のまま。

20120110鎌倉街道道路標識s-.jpg


日本名水百選の雄川堰沿いは桜並木となっており、春は所々に残る白壁の旧家の佇まいに花が映える様が目に浮かぶ。

大手門跡を横に、レンガ造の大正時代の養蚕倉庫を改築した歴史民俗資料館があり、世界遺産登録を目指している「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つとなっている。

20120110小幡街並みs-.jpg  20120110甘楽町歴史民俗資料館s-.jpg


藩主が通った中小路は14mもある闊達な道で、石組みが美しく残り、昔の勘定奉行高橋家の白壁の家が景観を引き締める。
入口には、笑門のお札を貼った注連飾り。

防衛上とも下級武士が上級武士に出会うのを避ける為とも言われる、喰い違い郭も珍しい。

20120110中小路s-.jpg  20120110高橋家入口s-.jpg  20120110喰い違い郭s-.jpg


群馬で唯一残存している大名庭園という楽山園は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と言う論語の一節から名付けられた。
桂離宮を模したとも言われており、借景の山を戴いた回遊式の林泉は、辿る道筋に従い次々に視線と景観が変化して飽きる事がない。
今は三月末までの修復復元工事が進んでおり、工事完了後はより一層人々の誇りの場所になる事だろう。

20120110楽山園入口s-.jpg  20120110楽山園1s-.jpg  20120110楽山園2s-.jpg


町を歩くと、小中学校の生徒が一人残らず挨拶をしてくれる。
このような町は少なくないが、聞くと学校でそのように指導を受けているとの事。
特に旅行者に対してでなく、町で会う人に全て挨拶を交わす。
住んでいる土地に対する親しみと、地域の繋がりや誇りはこのような日常の些細な事から受け継がれる。

日本を歩くと疲弊した地方も多いが、この町は伝統と経済が程よく整合し、何より暮らしている人々の町に対する矜持と自信が問わず語りに窺える。

小さな城下町小幡は、歩いていても空気がキリリと引き締まって感じられた事だった。
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2011年09月02日

宇津ノ谷と蔦の細道

宇津ノ谷は東海道の鞠子宿と岡部宿の間にあり、交通の要衝から取り残され今も鄙びた佇まいを見せている。
以前東海道を歩いた時に、宇津ノ谷峠を越え、平行して走る平安時代の古道の蔦の細道が気掛かりだったが、先を急いで辿ることが出来なかった。

この細道を辿るため、宇津ノ谷を10年ぶりに訪れた。

宇津ノ谷集落は道路が整備され、少し様変わりしていたが、もと立場茶屋だった有名な御羽織屋の上品なおばあさんは、90歳になったと言うがまだ健在で、秀吉とのいわれを昔と変わらず語ってくれた。
この集落の時間は、どこか優しく、ゆったりと流れているようだった。

20110809宇津ノ谷集落s-.jpg


この谷あいには明治、大正、昭和、平成の夫々時代を映す4つのトンネルがあり、明治のトンネルは日本初の有料トンネルとしても有名で登録有形文化財にもなっている。
レンガ造りのトンネルには、ひんやりとした明治の風が吹き抜ける。

20110809明治のトンネルs-.jpg


旧東海道で峠を越えて、岡部宿側に出ると 木和田川沿いに蔦の細道公園があり、兜堰堤と言われる明治時代の小規模なロックフィルダムが復元されたものを見ることが出来る。

公園が尽きると蔦の細道への入り口がある。

20110809蔦の細道1s-.jpg


蔦の細道は平安時代からの主要道だったが、秀吉の小田原攻めの時に東海道の経路が作られて廃れたと言われている。
しかしそこには業平の東下りの歌に惹かれて、多くの歌人、旅人が訪れている。

  駿河なるうつの山べのうつつにも 夢にも人に逢わぬなりけり (伊勢物語:在原業平)

  我がこゝろうつゝともなしうつの山 夢にも遠きむかしこふとて (十六夜日記:阿仏尼)

  ひと夜ねしかやの松尾の跡もなし 夢かうつつか宇津の山ごえ (兼好法師)                                                             
歌もさることながら、この道を描いた伝俵屋宗達の「蔦の細道図屏風」の夢でありうつつでもある完全な抽象性に満ちた美しさには驚く他は無い。
風景が歌を作り、歌が、絵を生成し、絵が再び人の心に風景を植え付ける。

  わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く・・・

六曲一双の屏風は、左隻の左端と、右隻の右端が繋がるように描かれており、いと暗う細き蔦の細道は目の前で無限に循環する。
蔦の葉に見立てた烏丸光広の流麗な散し書きの賛の一つには、「茂りてぞ むかしの跡も 残りける たとらはたとれ 蔦のほそ道」と書かれている。

蔦の細道.jpg 


現代の蔦の細道は、昔からのものが判り易い姿で残存していてそれが陽の目を見たわけではない。
昭和40年台に小学校教諭だった春田鉄雄氏が、わずかに残る手掛りから荒れ放題の山を、住民の方々と大変な苦労して復元整備した。

 20110809蔦の細道2s-.jpg  20110809蔦の細道3s-.jpg


一つの風景は、完全無欠の美の姿で永劫に残る作品を導き出し、その風景は長い時代を経て現代の道の復元に繋がっている。
蔦の細道に関わった人々が残そうとしたものは、幾重にも重層し、沈み込んでは浮き上がり、想いは蔦の細道図屏風のように巡りめぐって浮遊する。

道を辿って、明るい現代に辿り着いた時、古からの一吹きの風が耳元を通り過ぎた。

  たとらはたとれ 蔦のほそ道
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2011年07月27日

菅江真澄を詣でる

菅江真澄は、宝暦4年(1754年)三河に生まれ、29歳で理由不明の出奔をして、各地を放浪。多岐にわたる民俗学的著作を残しながら、特に東北に多くの足跡を残している。
常被りとも言われて、生涯に亘って頭巾を身から離さず、南部藩の隠密とも言われたり謎も多い人物だ。

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旅する巨人と称された宮本常一は、東北を訪れた時に真澄の墓を詣で、「宮本常一 写真・日記集成」で目にしたその写真が印象的だった。
宮本は菅江真澄遊覧記全五巻を翻訳したのも、民俗学的価値はさることながら、旅を通して共通の視点を持つ彼が菅江真澄に込めていただろう思いを察することが出来る。

宮本常一には及びもつかないが、秋田に行った折に、江戸時代の歩く達人の墓だけを詣でるために足を運んだ。

墓は、羽州街道沿いの出羽の柵と言われた秋田城にほど近い、寺内という場所にある。
墓の横には市の説明板が立てられているが、一つだけ西向きに立っている墓の扱いは粗末に見受けられた。

20110704菅江真澄墓2s-.jpg  20110704菅江真澄墓1s-.jpg


真澄は二十代から七十代まで、流浪の旅を送り、墓には「卆年七十六七」と彫られていて、正確な年齢もわからない人生だった。
しかし人々には好かれたらしい。

生涯妻を持たなかったが、漂白の生活は孤独であっても不幸であったわけではない。

柳田国男は「斯んな寂しい旅人が一人あるいていたのである」と書いているというが、そうだろうか。
きっと貫き通した孤独は、笑みに満ちた孤独だっただろうと思い、手を合わせて墓を後にした。
ラベル:菅江真澄
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2011年07月13日

象潟

象潟を訪れた。
以前象潟の鉾立から鳥海に登り、吹浦に下った。残念ながら今回は見ることが出来ない。
串田孫一が「もう登らない山」という本を書いていた、鳥海はもう登らない山かもしれない。

九十九島・八十八潟の象潟は不思議な地名だ。
昔は蚶方といい、蚶(キサ)とは蚶貝の事であり、蚶が沢山採れる地方の意味で蚶方→蚶潟→象潟となったという説があるがどうだろう。
象潟の名刹蚶満寺は蚶が満る所から蚶満寺とも云われたというが、司馬遼太郎が言う蚶方の方が万に変わり更に満という説ももっともらしい。

芭蕉が訪れたのは1689年で(元禄2年)その後1804年(文化元年)に象潟地震があり、2mほども土地が隆起して芭蕉の見た風景は失われたのは良く知られる所だ。

ここも能因法師の後を西行が訪ね、西行の跡を芭蕉が訪ねるという構図が見事なほど鮮明だ。


芭蕉は西行の跡を辿るが、まず能因法師が3年間幽居したという能因島。

 象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、・・・(奥の細道)

  世の中はかくても経けり蚶潟の 海士の苫屋をわが宿にして (能因法師)

能因法師の幽居は怪しいが、能因島には島の名前を記した碑が立っている。

20110702象潟s-.jpg  20110702能因島s-.jpg


奥の細道で芭蕉は、蚶満寺に向かう。ここは西行。

 むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
 江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。(奥の細道)

   蚶方の桜は波に埋もれて 花の上漕ぐ海土の釣り舟 (西行)

桜の老木は無く、西行法師の歌桜という何十代目かの若木があった。 
西行は二度東北を旅しており、次の歌も二題話か。

  松島やおしまの月はいかならん ただきさかたの秋の夕ぐれ (西行)

 此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に盡て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり(奥の細道)

鳥海も見えず、それらしき方丈は見当たらなかったが、蚶満寺は神功皇后を乗せた船が三韓征伐のあと漂着し、応神天皇を生み終えたという伝説があり、山号も皇后山干満珠寺。
開山者は、これも東北ではなじみの深い慈覚大師円仁。

蚶満寺に舟つなぎ石が残っており、これはありふれた物でなく、神功皇后の乗った船を繋いだ石であるとすれば、畏れ多い事ではある。

20110702蚶満寺参道s-.jpg  20110702舟つなぎの石s-.jpg


さて、芭蕉だが、
 松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟や 雨に西施がねぶの花 (奥の細道)

あいにく、空は晴れ渡り、合歓の花も終わっていた。
しかしこの一句で、西施の故郷の中華人民共和国浙江省諸曁市と象潟は姉妹都市、松島とも姉妹都市、象潟のあるにかほ市の市の花は合歓の花。

20110702西施像s-.jpg


象潟は 晴れて西施は見当たらず、風が吹き抜けていた。

20110702象潟2s-.jpg
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2010年09月13日

「歩く巨人」と「旅する巨人」

「歩く巨人」というと、誰でも知っている伊能忠敬で、55歳で隠居に入り、70歳で第十三次測量を終えるまでのの15年間、地図作成のために日本全国を縦横無尽に渉猟した。

20090411伊能忠敬像s-.jpg


井上ひさしが小説の「四千万歩の男」で、何故か忠敬の歩幅を「二歩で一間」と計算して、計算も合わないがもっぱら伊能忠敬は4万kmを歩いたという事になってしまっている。

今は歩幅は69センチと分っているらしく、四千万歩でなくて五千万歩いてその距離は3万5千キロという説もある。

とにかく、歩く巨人である事は間違いなく、今年生まれ故郷の佐原にある様々な資料が国宝指定されたのも面目躍如の感がある。

「旅する巨人」の名称は、在野の民俗学者だった宮本常一に付けられている。
宮本は生涯に伊能忠敬の4倍の16万キロを歩いたと言われているが、その根拠はよく分らない。
一日平均40km歩き、延べ調査日数が4000日というのが根拠らしい根拠と言える。

20100913宮本常一修正1.JPG


宮本の庇護者だった渋沢敬三が、「日本列島の白地図に宮本常一の足跡を赤インクで垂らしていったら、日本列島は真っ赤になる」と言ったという話もあまりにも有名だ。

民俗学に取り組み始めたのは20歳を過ぎてからで、73歳で亡くなるまでの50有余年で16万キロという事になるのだろう。

ところで、現代の日本人男性の一日の平均歩数は逐年低下しているがそれでも、7300歩を越えている。平均歩幅は75cmなので年間2000kmも歩いている事になる。
5歳から、70歳まで日常的に歩けると仮定するとその延べ歩行距離は13万キロとなり、伊能忠敬はおろか宮本常一にも引けを取らない。
旅で歩いたかどうかは別として、殆どの人は歩く巨人であるわけだ。

一昔前、岩波文庫創刊六〇周年記念アンケートの「私の三冊」で司馬遼太郎は三冊の本の中の一冊に、宮本常一の「忘れられた日本人」を選んでいる。
司馬遼太郎の43巻に亘る「街道をゆく」は宮本の原案といわれ、二人は宮本の晩年にすれ違っているが不思議な関係だ。

宮本の死後、宮本常一写真・日記集成が発刊された。
生涯に亘って撮影した膨大な10万枚の写真の一部が掲載され、所謂芸術写真では無いが、記録者としての無色透明な貴重な映像を見る事が出来る。
その中には、普通の日本人の真に滋味溢れる表情や、昔は誰もがそうだった、笑いがこぼれた子供たちの映像もある。

別の一枚に、秋田にあるこれも江戸時代の旅する巨人の一人の菅江真澄の墓が写っている。
宮本が詣でた理由は分らないでもない。

20100913宮本常一撮影子供.JPG  20100913菅江真澄墓.JPG


宮本の故郷は周防大島で、大正12年に16歳で大阪に出る時に、父親の善十郎が十か条のメモを取らせたと言われている。
その2は、「村でも町でもあたらしく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。・・・高いところでよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。」
その4が平凡だが、「時間のゆとりがあったら出来るだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。」
特筆すべきはその3で、「金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。」

なるほど。
16万キロの足跡の原点は、意外と単純な事かも分からない。
伊能忠敬も「歩け、歩け。続ける事の大切さ」と言ったとか。

単純なものこそが、持続的で揺ぎ無い力を発揮する。
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2010年08月28日

重要文化的景観

酷い残暑と、国民を放置して権力闘争に明け暮れ、迷走する政治にほとほと疲れ果てるこの頃だが、「重要文化的景観」なるものを知った。

5年ほど前に制定されていて、今は22件が指定されている。
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shurui/keikan.html

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場所を見ると、傍を通り過ぎた程度のことはあっても知らないものが殆どだが、一般観光地とは違ってかなり魅力に溢れている。
四万十川が五件も指定されているのも、どういう選定基準なのか不思議に思う。

こういう取り組みは、助成金も交付されるはずなので、悪いことではないだろうがかなり重複した活動が見受けられる。

同じ文科省が管轄しているもので、建物に特化した「重要伝統的建造物群保存地区」と言うものもある。
http://www.bunka.go.jp/1hogo/shoukai/main.asp%7B0fl=list&id=1000000177&clc=1000000153%7B9.html

国交省管轄では、古都保存法に基づいて「美しい日本の歴史的風土 100選」と言うものも選定していて、「重要伝統的建造物群保存地区」とかなり重複している。
http://www.kotohozon.or.jp/pdf/100sen_kekka.pdf

調べるとこういうものは、まだまだありそうだ。
いずれにせよお上から認定してもらうのが目的ではなくて、実際そこでどのような町つくり、景観の維持が図られているかが重要なのは言うまでもない。
何にも指定されていなくても、素晴らしい町であり心打つ景観であるところは多く、逆に指定されていても惨状を呈しているところも少なくない。

町も、景観も国が作ったのではなくて、長い時間を掛けてそこに実際に住む人が醸成し、目に見えぬ努力をして維持され続けているる。

しかし、色々なリストを見ると、狭いと思っている日本は途方もなく広い事を改めて思い、通りすがりの光景の裏に隠された人々の忍耐強い営みに感謝の念を払わずにはいられない。
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2010年01月16日

安房の国、羅漢と仏と水仙と

安房の鋸山にある日本寺は、千五百羅漢で有名で、中々機会が無かったが、近くの水仙見物も兼ねて小春日和に繰り出した。

鋸山山頂からは、対岸の三浦半島が指呼の間。
東京湾口の一番狭まった所を、行き交う船も春めいている。

20100116東京湾s-.jpg

日本寺はいわくありげな寺だ。
聖武天皇の勅詔を受けて、行基が1300年前に開いた関東では最古の勅願所だが、何故国号の日本という名前を与えたのか。

当初法相宗に属し次いで天台、真言宗を経て曹洞宗と宗派も変転、円仁も入寺した。
世界救世教の岡田教祖が境内の十州一覧台で天啓を受けたとされ、聖跡と定めその碑が設立されている。
そのため、日本で二番目に長いという参道の階段は、世界救世教の寄進によるという、立派な御影石が敷き詰められている。

バーミヤンもかくやと思われる、採石場の跡に刻まれた百尺観音。
大戦の犠牲者の供養と交通犠牲者供養のためというが、誰が発願したものか。

20100116百尺観音s-.jpg


千五百羅漢は廃仏毀釈の折にかなり毀損されたが、それだけが原因ではないともいう。
いずれにせよ、江戸時代に二十一年間かけて作られた羅漢達は、今もその味わい深い豊かな表情を見せ続けている。
百体観音もたおやかだ。

20100116羅漢1s-.jpg  20100116羅漢2s-.jpg  20100116百体観音s-.jpg


昭和44年再興された日本一大きいという大仏は、かなりいかつい感がする。

20100116大仏s-.jpg


本堂は昭和14年の失火で焼失し跡形も無く、ようやく新本堂の敷地の整備が始まっていた。
行基椎の前の早い梅の花を見て、疑問符山積みの乾坤山日本寺をあとにする。

20100116梅s-.jpg


足を伸ばした江月の水仙ロードは、こちらは負けずと早咲きの桜が咲いている。
江戸の早春も彩ったという水仙は、まだまだ盛で陽だまりの中ほのかな香りを運んでいた。

春は直ぐそこだ。

20100116水仙ロード桜s-.jpg  20100116水仙ロードs-.jpg  20100116水仙ロード2s-.jpg  
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2009年11月10日

北京雪天

今年は北京は22年ぶりの早い雪が11月1日に降り、その余波でこの日も夜間に雪が降る。

■頤和園
北京の中心街から20km程度の距離にある頤和園は、降り止んだ雪の中、薄墨を流したような靄の中で待っていた。

20091110頤和園1.JPG  20091110頤和園2s-.jpg  


乾隆帝がその母親の誕生日を祝うために築かせ、その後破壊されたが西太后がこよなく愛し、軍費を流用してまで再建した頤和園は、中国に現存する最高、最大規模の皇宮庭園。

広大な人工の昆明湖、それを掘った土で作った万寿山。730mに及びぶ8000幅もの絵が描かれた西太后のための長廊。
これらを何事もなく作り上げてしまう中国の権力者の欲望は、想像の彼方にある。

20091110頤和園3s-.JPG  20091110長廊s-.jpg

皇帝の執政の為の仁寿殿内の玉座の後ろには、226の書体で「寿」の字が書かれている。
仁寿殿の名称は、論語の「知者は楽、仁者は寿」から由来している。どちらも難しそうだ。

西太后が暮らした楽寿堂の前には銅製の花鹿、仙鶴、大瓶が並んでいた。
これは「六合太平(=天下泰平:六合は天下・宇宙・上下・東西南北の六つの空間)」の漢字の発音にちなんで置かれているものとか(鹿鶴大瓶=六合太平)。
謎掛けのような語呂合わせも極まるが、中国三大悪女の一人の西太后が設けたものかどうか。

20091110仁寿殿s-.jpg  20091110楽寿堂s-.jpg

中国の宇宙観が散りばめられ、あらゆる所に謂れがあり、殆ど個人の為だけに作られた桃源郷のような景観と施設。
しかし、頤和園の「仁者は寿(ながし)」と願った光緒帝は34歳で西太后に毒殺された。

六合太平と願ったのは、果たして西太后なのかどうかも、雪の頤和園は何も語らない。


■八達嶺長城
始皇帝が作った事が始まりの万里の長城は、その後総延長が8000kmを越え、天安門広場と同じに、中国のシンボルとして様々な画像で流される。

20091110万里の長城1s-.jpg  20091110万里の長城3s-.jpg  20091110万里の長城2s-.jpg

北の蛮族の匈奴、蒙古等への恐怖で作られ、北に向けて銃眼を持つ長城は、工事で困苦のうちに死んだ膨大な人々が城壁に生き埋めにされた。

明の時代に強化されたが、その長城は明の内紛に乗じて女真族の支族である満州族に、易々と打ち破られる。
どの時代でも、鉄壁の守りはありえる筈もなく、綻びる原因は治世者と政治の紛争だ。

嶺を越え、谷を越え、蛇がうねる様なその姿は思いのほかに優美にも見えたが、歴史の重く無残な記憶がその下に埋もれている。

オバマ大統領も18日に登り、月並みだが「万里の長城は非常に雄大だ、中国の悠久な歴史を偲ぶことができる」と語ったという。

悠久の歴史は、万里の長城においては、戦乱と人々の苦難の歴史なのだ。
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2009年11月09日

北京冬天

■天壇
明の永楽帝が建立した天壇は、天円地方の中国の宇宙観に従って配置されている。

天子が天帝と交信を行う場が壇で、北京には九壇があったと言われ、特に天地日月の壇が大きく、天壇は勿論そのうちで最大のものだ。
天壇の祈年殿で、皇帝は正月に五穀豊穣を祈り、祈りの時は紫禁城から行幸する。
足を地に接して歩くことは地霊に対する礼儀であり、重要な儀式の式場には天子といえども徒歩で向った。

そのような、天壇の祈年殿古建築群は2006年に修復され、色鮮やかに蘇っている。
天壇は瑠璃の甍、翡翠の甍。

20091109天壇s-.jpg  20091109天壇内部s-.jpg  20091109天壇緑瓦s-.jpg

昔の神域も、何の咎めもなく見れるのは、やはり良い時代なのだ。

■天安門広場
この広場は、20年前の1989年数百人が虐殺された天安門事件の現地だ。
今は今年10月1日の建国60年の国慶節の時に設置された巨大なディスプレーと、中国の56の民族を表すという民族団結柱なるポールに囲まれている。

広場は、寒さにもかかわらず中国人の観光客で賑わっていたが、そこに入る為には、手荷物のX線検査を受けねばらない。
自由であるはずの広場に、騒乱の恐れを抱き続ける権力の指向はどの国も変わらない。

20091109天安門広場1s-.jpg  20091109天安門広場2s-.jpg  20091109天安門広場3s-.jpg

百万人が集結できるという広場を、天安門の高みから眺めると何時もそこに立つ人が求め続ける権力の魔物が乗り移るようだ。

■紫禁城
紫は紫微垣の紫。
宇宙の中心の北極星を含む星座で、皇帝の絶対権力を象徴している。
禁は庶民が足を踏み入れることのできない「禁地」。

名称一つにも、皇居という即物的な日本の名称とはかなり違う中華思想。
その紫禁城は天安門を北に抜けると、今は故宮博物院と呼ばれ巨大な城壁の中に豪壮かつ絢爛と存在する。

明清両王朝を通じて24人の皇帝が居住したその広壮な敷地には、青白石の基壇の上に紅い壁、黄釉瓦の甍を持った夥しい建築群が立ち並ぶ。

20091109牛門s-.jpg  20091109太和殿s-.jpg  20091109中和殿s-.jpg 


一本の樹もない紫禁城は、黄金の甍の波だ。

20091109s紫禁城甍s-.jpg  20091109玉座s-.jpg

永楽帝から溥儀まで、中国の皇帝は冷たく且熱い、抽象そのものの石だけの広大な庭を日夜眼前にして、何を思い続けたのか。
今も残る玉座は、何も語らないが、清の最盛期を作り出した乾隆帝の書いた「皇建有極」は治世者の韜晦さを顕してるようだった。


お約束の京劇は心地よさげに見得を切り、人影もまばらな目抜き通りの王府井もそろそろ夜の帳を下ろす頃。

20091109京劇s-.jpg  20091109王府井s-.jpg
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2009年11月08日

長安覧古

シルクロードの起点の長安は、今は西安と名前を変えているが、4000年を越える歴史を持つ中国を訪れるには、秦、漢、随、唐と都であり続けたここほど相応しい場所はない。

秦の始皇帝から始まり、武帝、太宗と則天武后、玄奘三蔵、玄宗と楊貴妃、李白、杜甫、白居易、阿倍仲麻呂、空海、円仁。
皆、長安で見た夢は様々だ。


兵馬俑では2200年の時を経て、土に戻る眠りから覚まされた兵士達が今なお始皇帝を守り続けている。

IMG_2220s-.jpg  IMG_2212s-.jpg  IMG_2249s-.jpg

すぐ傍の始皇帝稜は地下宮殿が確認されているにも拘らず、発掘作業が行われていないのは文化遺産への配慮なのか、技術的なものなのか。
そうではなくて、歴史への畏怖だろう。


玄宗と楊貴妃の避寒の地、華清池は李白の長恨歌にも詠われた。
 春寒賜浴華清池
 温泉水滑洗凝脂

楚々としない豊満な楊貴妃像が、意外な驚きだ。

20091108華清池s-.jpg  20091108楊貴妃像s-.jpg

中国の皇帝は書を偏愛したものは多いが、毛沢東の筆になる長恨歌が、掲げられている。
毛沢東は狂草の懐素をこよなく好み、日夜修練したという。
見事な筆捌きだ。

20091108毛沢東書s-.jpg


玄奘三蔵の17年間、3万キロの求法の旅で持ち帰った膨大な教典を収める為に建てられた、慈恩寺にある大雁塔は昔も今も長安を見守っていた。
時間がなくて、大雁塔入り口にあるチョ遂良の「大唐三蔵聖教序」「大唐三蔵聖教序記」の石碑を見逃したのは返す返すも惜しまれる。

IMG_2301s-.jpg  IMG_2309s-.jpg

長安の象徴の鐘樓のライトアップの頃となり、季節は違うが李白も詠う胡姫の舞で夜が更ける。

 落花踏盡遊何處
 笑入胡姫酒肆中

20091107鐘樓s-.jpg  20091108唐歌舞2s-.jpg  20091108唐歌舞1s-.jpg
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2009年05月04日

お江戸見たけりゃ佐原においで

・・・・お江戸見たけりゃ佐原においで 佐原本町江戸勝り・・・
という事で佐原に行ってみた。
勿論歩き派としては、千葉で唯一指定されている重伝建地区の見物と共に、佐原出身の歩く巨人伊能忠敬詣がもう一つの目的。

駅の出口には、伊能忠敬の一歩などが描かれた石が埋め込まれているが、気づく人は殆どいない。

20090404佐原駅碑s-.jpg


しかし流石に、重伝建の川沿いの風景はそれなりの風情があり、新しい建物も街並みに合わせて作ろうという姿が見られる。
ジャージャー橋とも言われる、樋橋もめずらしいく、全体的にはミニ柳川+ミニ川越という感じだ。

20090504佐原街並みs-.jpg  20090504伊能忠敬旧居s-.jpg  20090504ジャジャ橋s-.jpg


伊能忠敬記念館に様々な資料が展示されているが、地図以外にも几帳面な人柄を示すような克明な測量日記などが印象的。
10回に亘る測量の旅の、多分全てが残っているようで、奇跡的だ。

ところで、街道歩きにも、町歩きにも地図は必須なことは言うまでもない。
佐原駅前に水郷佐原観光協会が入っている建物があり、佐原の観光地図はここで入手できる。
日本地図を作った伊能忠敬の町なので、さぞやと思って期待するが、残念ながらあまりセンスの良くないありきたりの一枚のマップ。
ここまでは、普通の話だが、これが有料で僅かな金額だが、20円を徴収される。
日本全国の観光地で、観光マップでお金を払った記憶は無く、伊能忠敬の町でもある佐原での有料地図は、殆ど悪いジョークとしか思えない。

佐原も観光地部分は、それなりの人出だが、駅前商店街は例によって衰退し、地方都市の典型の姿を示している。
観光で活性化の道を探るのであれが、行政のしっかりした考え方と取り組みが必要で、それは極些細な地図一枚からも見えてくるものだと思えた。

さて、町の中で圧巻なのは、上り龍下り龍の看板を持つ明治13年に作られた正文堂書店だが、立派な外観と裏腹に既に3年前に商いは止めており、内部は荒れ果てたまま放置されている。

20090504正文堂s-.jpg  20090504正文堂内部s-.jpg

ご主人が入院中という店主のおばあさんが、一人観光客の為に何をするでもないが戸を開けてくれている。
重伝建地区は家屋の増改築や修理に国から補助金が出るが、この内装は建物本体ではないので、対象外か。
おばあさんに聞いて見ると、寂しそうにいまさら小奇麗にするつもりも無いという答えで、重伝建地区の光と影だ。

高いところから、今の佐原を見下ろしてるような伊能忠敬の像を見て、町を後にした。

20090504伊能忠敬像s-.jpg
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2008年09月06日

壷の碑

奥州街道の七戸宿と野辺地宿の間の千曳と言う処に、日本中央の碑公園があり、昔から歌枕として名高い、壷の碑に比定される碑が有る。
この石碑は1949年に付近から発見された。

20080906壷の碑s-.jpg

壷の碑の初見は藤原顕昭の袖中抄(1185〜1189)で、「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」
と記されているとか。

これ以来歌枕として名高く、寂蓮、西行、慈円、源頼朝、和泉式部など多くの歌人が詠っている。
近くには坪と石文という地名が残り、坪は当然壷とも記されるので、これが壷の碑とする説には魅力がある。

すぐ傍の、奥州街道の追分道標にも「壷村」の文字が見えるが、あちこち探ってもこの事を記した物が無いのは不思議。

2008090壷村追分道標s-.jpg

陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる 壷の碑外の浜風(西行)

陸奥の磐手忍はえそ知ぬ 書尽してよ壷のいしぶみ(頼朝)

請ひかば遠からめやは陸奥の 心尽くしの壷のいしぶみ(和泉式部)


坂上田村麻呂は水沢付近までしか来ていないので、田村麻呂の後、蝦夷を追ってきた文屋綿麻呂が刻んだものという説も有る。
日本中央は「ひのもとのまなか」と読み、大和朝廷は倭で、東北は日本と称されていたという事もあり、日本中央の言葉も違和感が無い。

いずれにせよ、明治天皇も執着して千曳神社の境内を掘らせて探したが見つからなかったとも言われる碑の、大らかな「日本中央」の文字を見ると古代史のロマンを感じる。

芭蕉が泪したという多賀城碑も壷の碑として名高いが、発見が江戸時代で早かったことと、伊達家が歌枕として意図的に売り出した事が、千曳の碑よりも有名になった原因のようだ。

20070522多賀城碑1s-.jpg

多賀城碑に実際に足を運んだ芭蕉は、
・・・其跡たしかならぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。・・・
と記している。

もし二つとも見ていたら、一体どのような感慨を持っただろうか。
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2008年03月25日

意表を突く白水阿弥陀堂

平泉藤原四代の清衡の娘徳姫が、中尊寺金色堂に倣って作ったという白水阿弥陀堂。
白水は平泉の泉の文字を分けたいう、ゆかしい名前。

通常社寺仏閣は結界があって、それを過ぎて現世を越えた別の世界に入るのだが、この阿弥陀堂はそれらしいものは何も無く、意表を突いて全く唐突にその姿を晒す。

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方行の屋根が思いのほか勾配が強く、全体的に骨太のプロポーションなのもやや意外だ。
福島県唯一の国宝建築物だが、明治35年に暴風で半倒壊し古材でかなりの修復が加えられたということで、内部の外陣の天井も見るからに新しく、これも後世の追加らしい。

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しかし、背後になだらかな経塚山を従えて再現された浄土庭園は、阿弥陀堂と一体となり、遅い春の中まことに、極楽浄土を願った平安の世の人の心をそのまま出現させている。
七宝の池に植えられている蓮華が美しく花開く頃、無量光で満たされた庭の姿をもう一度見たいものだと思った。

20080325白水阿弥陀堂庭園s-.jpg
ラベル:白水阿弥陀堂
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2008年03月04日

函館・日帰り鉄道雪見旅

北海道旅行も飛行機では当たり前。
春の気配の関東の花粉を避けて、趣向を変えて函館まで雪見旅。それも日帰りでというのが趣向。

盛岡あたりで雪がちらほら見え始め、新幹線終点の八戸では折りしも雪が降っている。

20080304八戸s-.jpg


車窓に流れる雪景色は、寒々しくも何故か心洗われる。

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 風の音が胸をゆする
 泣けとばかりに
 ああ津軽海峡冬景色

意外と明るい、津軽海峡冬景色。

20080304津軽海峡s-.jpg


初めての冬の函館。
駅も、駅前の朝市も綺麗に建て換わってしまったのは、良いのか悪いのか。

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街中は思ったほど雪は無いが、空気は流石に切り裂く寒さの中、駆け足で建物を回る。

20080304元町公園s-.jpg 20080304函館市庁舎s-.jpg 20080304元町教会s-.jpg

帰りの列車の中での、これはまだ変わらない味のトバをつまみのビールが日帰り強行軍の疲れを癒し、美味だった。
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2008年03月03日

長岡、出雲崎・冬の逍遥

■長岡
長岡出身の知名人といえば山本五十六、米百表の小林虎三郎がいるが、辿りたいもの何と言っても河井継之助だ。

もっぱら司馬遼太郎の「峠」での知識しかないが、時代に早すぎ、戊辰戦争で八十里越えで命を落とした人物の生き様はどうか。

河井継之助記念館の所蔵は、殆どが書なのが意外だった。
館員の方に尋ねると、それしか遺品が残っていないと。
しかし書があればそれで十分だ。

大振りで剛毅な書と、繊細な筆遣いの書が混在し、多面性を持ちながら時代を駆け抜けた性格が、文字の中から浮き上がるようだ。

継之助書1s-.jpg 20080303継之助書2s-.jpg

継之助の父の河井代右衛門は、聴松庵という号を持ち、僧良寛とも親交があった。
良寛自身がこの地を訪れて、「聴松庵を訪ねる」という漢詩も作っている。二人は何を語ったか。
縁が繋がる良寛と継之助が、僅かに面影を残す庭にその姿を重ね合わせる。

20080303記念館庭s-.jpg


栄涼寺にある墓はあいにく雪の中で、踏み跡もなく遠くから拝むだけだったが、一つ肩の荷が下りた感じで長岡を後にした。

20080303河井継之助墓s-.jpg


■出雲崎
出雲崎は、芭蕉が「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」の句を作ったことでも知られているが、何よりも良寛の故郷だ。

良寛記念館は谷口吉郎の設計で、既に40年が経っているが、丁重に維持されて、高台の海風に耐えながら人を迎え入れる。

20080303出雲崎俯瞰 s-.jpg 20080303良寛記念館s-.jpg


たまたま良寛のゆかりの人々という企画展が行われており、貞心尼などの書や絵が見られたのは、思わぬ喜びだった。

20080303良寛座画s-.jpg 20080303般若心経s-.jpg 20080303貞心尼歌s-.jpg
 

出雲崎の町は背面は急斜面の山が、目の前は波しぶきが掛かる日本海の荒海だ。
そこに妻入りの家々が冬の厳しい気候に耐えるように、肩を寄せ合って連なっている。

良寛誕生の地にある坐像は、母親の生まれた佐渡に向かい、生まれ育った土地の様々な風雪を背負っているようだった。

 たらちねの母がかたみと朝夕に 佐渡の島べをうちみつるかも

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その土地に足を運ばないと感じ取れない、空気と光と風。
出雲崎でも益々その感を深くした。
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2007年11月27日

青の国のシルクロード(その8:変わらざるもの、変わるもの)

シルクロードの起源は定かではないが、紀元前の中国武帝の時とも言われている。
経路も網の目のように様々だが、ブハラから北へ向かう道は今も昔も一つだけだ。
一直線にキリジクム砂漠を切り裂いて行く道は、カスピ海を回りこみ黒海までつながっている。
かすかに見える、寝待の月も変わらない。

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アム・ダリアはパミール高原から流れ出て、2400kmの旅の後、はるかアラル海に注いでいた。
今は灌漑のためのカラクム運河の取水などで、砂漠の途中で姿を消している。
元の姿に戻ることは不可能だが、何百年か経てば彷徨える湖ロプ・ノールのような運命を辿り、アラル海と共に消滅するかもわからない。
しかし、河が培った文明とその記憶は何時までも残り続ける。

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道は変わり、河も変わり、人も変わる。
あらゆるものが流転しても、心を震わせる沈み行く太陽の美しさは、永劫に変わらない。

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2007年11月26日

青の国のシルクロード(その7:タシケントを走る)

国内では自重気味だが、国外の旅だと走りたい気持ちを抑えるのが難しい。

団体ツアーは遅く着いて早立ちが定番。
今回もその例に漏れなかったが、タシケントだけは思いもよらず、ゆったりした朝で、徒にスーツケースの重しとなっていたジョッギングシューズが陽の目を見た。

早朝のまだ人気の少ない道や公園を走る爽やかさは、ランナーだけが知る快楽で何物にも替えがたい。

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日本だと感じる膝の痛みも皆無で、ウィーンにそっくりのタシケントの街路の冷たい風が心地よかった。

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2007年11月22日

青の国のシルクロード(その6:ウズベキスタンの人々)

ウズベキスタンには120もの民族がいるが、平均年齢は24歳、29歳以下が人口の70%、14歳以下が41%ととても若い国だ。

人々の表情は、眼に力があり、特に子供たちのとても明るい表情が印象的だ。
ウズベキスタンは、ソ連時代の社会主義的な良さも残し教育と医療は無料で行われている。

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まだ建国16年で様々な矛盾を抱えているようだが、若者には前に進む力が満ち溢れ、老人には大家族制度的な安心感が見受けられ、その表情は優しい。

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一昔前の日本人も、このようであったに違いない。
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2007年11月16日

青の国のシルクロード(その5:石の町タシケント)

タシケントは石の町という意味でウズベキスタンの首都、人口250万人もの国際都市だ。
1966年の大地震で街は壊滅し、その後旧ソ連に綺麗に再建され、古い町並みは殆ど残っていない。

美しく整備されたマロニエの街路樹は、一見パリやウィーンを思わせる。

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市内には中央アジア唯一の地下鉄が3本走っていて、その駅舎は一駅ごとにソ連時代の絢爛豪華な内装が施されているが、残念ながら空港や橋梁と同じで撮影禁止。

ウズベキスタンには第二次世界大戦後2万5千人もの、多くの日本人が抑留されていて様々な施設の建設に強制労働で従事させられた。
タシケントにあるナヴォイ・オペラ・バレエ劇場もその一つで、1966年の大地震のときこの建物は全くの無傷で残り、現地の人たちが改めて日本人の技術力に驚いたと言うことだ。
日本では殆ど感じることの無い、シベリア抑留の一つの姿がここにあり、墓碑に名前も刻まれていない郊外の日本字墓地に詣でた時の感慨もひとしおだった。

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かっての旧市街にあるチョルスー・バザールは今もありとあらゆるものが売られている大市場。
特に、屋内にある香辛料売場はスパイシーで噎せ返るような香りに溢れていて、シルクロードを通じ遠く日本にも伝わったものが数限りなくありそうだった。

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古いソ連時代を懐かしむ人も、現代の新しい体制を信じる人も、ウズベキスタンにいる120もの民族の考えは様々だろう。
しかし、タシケントは今の日本には全く感じられない、人々の未来に対する希望と強い確信が溢れて見える街だった。

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ラベル:タシケント
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