2014年01月30日

「内藤廣展 アタマの現場」

ギャラリー間の「内藤廣展 アタマの現場」に行ってみた。
少し前に新国立競技場についてのザハ・ハディドの案を擁護するかなり支離滅裂な発言で、諸事争論という感じになったが、まあ審査員としての立場だからノーコメントを貫いている安藤忠雄の老獪さに比べれば発言しただけでも良心的と言える。
勿論この展覧会はそのような事には触れることなく、いかにも優等生的なギャラリー間での二度目の展示だった。

「静岡県草薙総合運動場体育館」のプレゼンテーションにかなりのエネルギーが割かれている。
木材を多用する建築家の評判が定着してしまった内藤としてはやはり、この建物もその路線を踏襲している。
登呂の遺跡の住居を思わせるような外観を持つこの建物は、しかし規模は大きいが、あまり興味を惹かない。
同じ木材路線でも手を変え品を変えという隈研吾のスタイルとかなり違い、よく言えば実直で悪く言えば泥臭い。

20140129内藤廣展1s-.jpg


「アタマの現場」の一つとして、事務所の本棚、所長のデスク周りが再現されておりこれは、それこそ「頭の現場」で興味津々。
中川幸夫の櫻の書と、ピラネージのローマの地図が一際眼を惹くが、白川静の字訓、字統、常用字解があったのも印象的。石元泰博の写真集は納得だが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」とかスーザン・ソンタグの書もあったり、ホーと思ったりする。

20140129内藤廣展2s-.jpg  20140129内藤廣展3s-  .jpg


中村好文展の時も、蔵書がかなり置いてあったが、拠って来るところを公開することはかなり勇気が要りそうだ。

ワンフロアー上には、過去の作品の模型や材料のサンプルが置かれているが、何故か代表作の茨城県の天心記念五浦美術館のものが見当たらない。
出世作の海の博物館の架構模型の隣に、島根県芸術文化センターの模型があり、実物は未見だがこれはもう空間構成から切妻のデザインから五浦美術館とそっくりで、最初はそのように誤解したほどだ。
二つは併置出来ないのも尤もだ。

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実際に見た内藤の作品では、海の博物館を超えるものは無いように思われる。出世作が最良の作品というのは安藤忠雄と同じだ。

内藤の言う素形とは何だろう、写真家の中平卓馬に「原点復帰」という作品があった。
内藤の素形の更に原点は、きっと生まれ育った住宅で、それは勿論切妻で木造であるに違いない。

再現されたアトリエの本棚に、アタマの中を覗き込むような、眼の部分だけが切り取られた眼光鋭い写真がある、ピカソだろうか、そんな気もするがよく分からない。
常時この眼で、頭の中の原点を覗き込まれているのもかなり辛いが、原点からの逸脱も今の内藤には必要な気もした事だった。
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2013年08月29日

富弘美術館と足尾

群馬の草木湖に面して建てられている富弘美術館はコンペで選ばれ、金沢の21世紀美術館と全く逆に四角い外郭に多数の正円を内接させて展示スペースを作る空間構成で話題になった。
どんなものかと、見に行ってみた。

平屋の外観はエントランス側にだけ表情があり、よく見ると円と円の接する残余部分が表に表現されている。
内部にも空の部屋という、一部が外部に解放されたコーナーがあり、ここでは他の部屋を外観として円を見ることが出来る。
展示室は大小8つあるが、鑑賞ルートは誘導的になっており、意外と導線が混乱するような事は事は起こらない。
曲線の壁に、絵画を展示することの不合理さは誰しも分る事だが、星野富弘の作品の小さいスケールがそれを救っている。

この美術館は小奇麗で、個人作品の展示に限定しているという事ではその役割は十分果たしている。
しかし正方形と円というコンセプトの実現だけに精力を使い切り、空間的な豊かさや感動は殆ど見当たらない。
何時も写真で見かける、内部空間を暗示した四角の中に丸が配置された屋上の姿は、道を挟んだ駐車場側の斜面をよじ登らないと見ることは出来ない。
空からしか見えないのは、ミニ・ナスカの絵のようで、設計者のヨコミゾマコトの自意識と単純な精神構造をよく表している。

20130826富広美術館s-.jpg  20130826富広美術館俯瞰s-.jpg


美術館の運営や作品に眼を向けると、旧館の時代から開館20年目にして既に600万人が訪れており、息の長い人気が続いているという事になる。

詩画作家というネーミングで説明される作者の言葉が添えられた癒し系の作品は、その言葉が書の相田みつをの作品と瓜二つだが、絵よりも言葉の方に気を取られがちになる。
相田みつをは在家で禅を学び、星野富弘は洗礼を受けたクリスチャンと言う事も相似形のように見える。

星野富弘は草花を中心とした静物の絵しか描かない。
岩崎ちひろは、やはり癒し系だが様々な人の絵も描き、メッセージ性の強い「戦火のなかの子供たち」という作品もある。
男性が癒しだけの周りを回遊し、女性がそこから逸脱して綺麗ごとだけでない表現をするのは興味深い。

美術館からわたらせ鉄道で足尾に行くと、100年前の古河工業の迎賓館の掛水倶楽部があり、外から様子を窺った。最近まで使われていた気配のあるテニスコートに面して、これはまだ使われているという書庫がある。
掛水倶楽部の設計者は不明、書庫は明治43年建設なのでこれも100年以上の歴史がある。
掛水倶楽部に隣接して、殆ど人が住んでいない社宅群があり、他の場所にも廃墟となった社宅群が散在しているようだった。
足尾銅山は昭和48年に閉山しているで、この社宅もそれから40年経っていて、暫くすると歴史の仲間入りをする。
わたらせ鉄道の車窓からは、廃墟となった通洞選鉱所も見ることが出来る。
新しい建物よりも、過去が塗り籠められた廃墟が語るものが多い。

20130826掛水倶楽部s-.jpg  20130826書庫s-.jpg  20130826掛水社宅s-.jpg

20130826通洞選鉱所s-.jpg

 
足尾銅山はその公害の歴史も含めて、世界遺産登録を目指しているが、今も公害の廃水処理の作業が続けられており、遺産となる過去と共に現在に連続している過去を抱えている。
この日は足を伸ばせなかった、鉱毒で全ての樹木が枯死した松木渓谷もいつか確かめたいと思われた。

100年後の富弘美術館はどうだろうか。
掛水倶楽部は残るだろうが、富弘美術館が草木湖を望む場所に同じ姿で存在している事を想像するのは難しい。

富弘美術館も含めて、一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒。
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2012年10月25日

杉本そよ美術館

八王子から横浜までの、絹の道とも言われる浜街道の鶴ヶ峰付近を散策していたら、「杉本そよ美術館」と言う控えめな案内板が出ている、家を見つけた。

案内に従って裏手に回るが、極普通の家があるだけで美術館の所在がわからずに立ち去ろうとすると、玄関が開いて、ご夫人に招き入れられた。

このささやかな私設の美術館は、2006年に彼女の作品を展示するために、息女の鈴木さんがご自宅を改修して作られおり、一階と二階に数十枚の作品が展示されている。

20121024杉本そよ美術館1s-.jpg  20121024杉本そよ美術館外観2s-.jpg


杉本そよさんは若い頃に絵を志し、一時中断し多分50歳近くになって創作を再開し作画を続けながら91歳までご存命だった。

20歳そこそこの若描きの作品は、純和風で伝統的な描き方だが、その後日本画の作風は変転し、静物、植物、建物、風景と気持ちの赴くままに描かれているようだった。

20121024杉本そよ経歴s-.jpg  20121024杉本そよs-.jpg


展示室は肉親の作品を公開して、人に知ってもらいたいという気持ちが浸透るように感じられ、生きていた営みを作品を通じて伝えようとしている家族の愛情が漂っていた。

20121024杉本初期作品s-.jpg  20121024杉本そよ美術館作品s-.jpg  20121024杉本そよ美術館一階s-.jpg  


残念ながら、何の宣伝もしていないので、訪れる人はあまりいないということだったが、作品とともに、記憶の伝え方とそれを守っていく人の志、それらが紡ぎ出す静かな物語を垣間見て、深く考えさせられた。
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2012年07月17日

浜降祭

関東三大奇祭の一つの茅ヶ崎の浜降祭は、その由来は諸説あるようだが、今は開催日は変遷を経て海の日に行われている。

暑い夏はやはり祭りと言うことで、早朝からの祭りに繰り出してみた。

祭事が執り行われる砂浜の会場には結界の竹鳥居が立てられ、神輿はそこから入場し、人で溢れる式場を練り歩きながら、紺の幟がはためく斎竹で区切られた場所に着輿する。
38基の神輿が整然と並び、紺の幟が富士を背にはためく様は壮観だ。

20120716竹鳥居s-.jpg  20120716浜降祭1s-.jpg  20120716浜降祭2s-.jpg


夫々の神輿に御祓いが滞りなく執り行われたあと、各神輿が順次祭場を発輿し、寒川神社の五色の神旗も翻る。

20120716寒川神社神旗s-.jpg


かなり荒れていた海だが「どっこいどっこい」の威勢のいい掛け声とともに、思い切った神輿が禊に海に入る様は噂に違わぬ豪快さ。

担ぎ手には女性もかなり見受けられ、以前のような荒っぽさは減っているというが、どの神輿が、最後まで海に入り続けるかの駆け引きもあるらしく、町々の意地の張り合いも興味深い。

20120716浜降祭禊2s-.jpg  20120716浜降祭海中禊s-.jpg  


日本全国、神輿が海中禊をする祭りは数多いが、その圧倒的な数と富士を背景にする絶好のロケーションはここに勝るものはないだろう。
相模国一之宮寒川神社の神官に八方除の御祓いを受けた神輿と人々は、今年のこれからの運気は間違いなさそうだった。

梅雨もあけて、見計らったように赫々たる本当の夏がやってきた。
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2012年04月11日

花の雲 鐘は上野か浅草か

江戸に幕府公認の時の鐘は10あり、日本橋石町、浅草寺、上野山内、本所横川町、芝切通、市ヶ谷亀岡八幡、目白下新長谷寺、四谷天龍寺、赤坂田町(初め圓通寺から成満寺)、下大崎寿昌寺と言われている。
目黒祐天寺と巣鴨子育稲荷がこれらに加わって12、これらから3つが除外されて江戸後期には9つ。
そのうち日本橋石町、上野寛永寺、浅草寺弁天山、赤坂圓通寺、四谷天龍寺、目黒祐天寺の6か所の鐘が現存している。

「花の雲 鐘は上野か浅草か」、芭蕉のこの句に誘われて二つの時の鐘を巡りつつ桜狩を兼ねて歩いてみる。

上野の時の鐘は、韻松亭という茶店の敷地内にあり、史跡として厚遇はされていない。
時の鐘自体は以前は寛永寺のものだったが、今の所属はどうなのか不明。鐘も一日三回撞かれているらしいが誰が撞いているのだろうか。
芭蕉の句はここの鐘を詠んだと言われるが、かろうじて、桜の景観を添える事ができる。

20120410上野時の鐘s-.jpg


東博の敷地には本館前に見事なヨシノシダレがあるが、まだ早い。
「博物館でお花見を」の桜にちなんだ展示も例年と同じなのは、良いのか悪いのか。国宝室は恒例の花下遊楽図屏風。
例年今の時期公開される庭園の、若葉も添えるオオシマサクラと盛りのエドヒガンサクラが目を楽しませてくれる。花の下は現代の花下遊楽図。

20120410東博ヨシノシダレs-.jpg  20100327花下遊楽図屏風s-.jpg  20120410東博庭園桜s-.jpg


浅草は、震災復興支援の名目で公開されいる浅草寺の伝法院の庭を拝観。
小堀遠州の作とされ明治までは秘園だったが、昨年国の名勝に指定され、それまでは未公開だったものをそれを期に、時々公開されるようになった。

喧騒の仲見世が直ぐ隣にはあるとは思えない雰囲気で、おりしも桜が満開、五重塔に加えて景観にスカイツリーも加わってまことに春に相応しい。
特別展示室では、見事な寺仏の大絵馬が楽しめる。

庭園の今後の公開は未定との事だったが、浅草の名所として今後も多くの人楽しませてもらいたい。

20120410伝法院s-.jpg  20120410伝法院結界s-.jpg  20120410伝法院蹲s-.jpg


さて、お目当ての時の鐘は境内の弁天山にあり、足元には芭蕉の「くわんをんのいらか見やりつ 花の雲」の句碑がある。この句は芭蕉43歳、同じ花の雲でも、時の鐘の句は44歳。
この時の鐘も、現在も午前6時に時を知らせているという。

同じく境内の奥中庭園には宗因、芭蕉、其角の三匠句碑があり、こちらには時の鐘の句が彫られている。

 ながむとて花にもいたし頸の骨   宗因
 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉
 ゆく水や何にとどまるのりの味   其角

20120410浅草寺時の鐘s-.jpg  20120410三匠句碑s-.jpg


浅草寺の時の鐘は1692年に、上野の時の鐘は1666年に作られている。芭蕉の時の鐘の句は1687年に詠まれているので辻褄が合わないがそれはそれ。
花見に野暮は無しで、〆にはやはりスカイツリーか。

酔眼ではないのだが、噂の通り塔が傾いて見える。
低層部の三角形から上部の円形に変化してゆくために、そう見えるという事で実際に塔が傾いている訳ではないが、ざらりとした不快感が残り、あまり気分のいいものではない。

これも隅田川の桜の潔さに免じて、目をつぶる事にした。
春のうららの隅田川。

20120410隅田川とスカイツリーs-.jpg  20120410スカイツリーs-.jpg   
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2011年08月06日

奥の正法寺

奥の正法寺は、水沢市(現:奥州市)にある曹洞宗の寺で、盛時は永平寺、総持寺と並び曹洞宗の東北地方における第三の本寺となっていた。
日本三大奇祭で有名な、黒石寺蘇民祭の黒石寺から3kmほどしか離れていない。

山号は大梅拈華山円通。
曹洞宗に大梅拈華録というものがあるようだが、詳細は判らない。拈華は勿論拈華微笑の拈華だろう。

正法寺の見ものは、日本一といわれる巨大な茅葺屋根で、平成18年に10年にわたる改修を経て蘇ったと言う。

惣門からは、しかしその巨刹は全く窺えない。
人を拒否するような、そして人のスケールを無視した蛇紋岩の石段があり、惣門を通るとさらに巨石の石組みによる次の階段が待ち受ける。
かろうじて見える茅葺屋根が、少しずつ視野を拡げてゆく。
明らかに、拒絶の意思に満ちた石段だが、その気持ちは分からないでもない。

20110704正法寺1s-.jpg  20110704正法寺2s-.jpg  20110704正法寺3s-.jpg


巨刹の本堂は、高さが26mもあるが、写真では残念ながらそのスケール感は全く分からない。

20110704正法寺本堂s-.jpg  20110704正法寺伊達家家紋s-.jpg  20110704正法寺屋根s-.jpg


実際に見て初めて分かることが多いが、何故このような場所に、何故茅葺なのか、何故感覚を麻痺させるほど圧倒的な大きさなのか。全ては宗教のなせる業なのか。

全て理解を超える建物だった。
タグ:正法寺
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2011年07月11日

気仙沼の凍った時間

今日で震災から4ヶ月が経った。
原発の収束は見えないが、ニュースはもっぱら復興にシフトしてことさらに明るさを装っている。
そんな中、何が本当なのか、何が起きているのか確かめてみたい思いから数日前、気仙沼を訪れた。

気仙沼の駅は高台にあり、近所では地震の被害も津波の被害も殆ど見受けられず何事も無いような日常だが、港に降りて行くに連れて少しずつ様相は変わってくる。
港は津波の被害で1階が破壊された建物が大部分で、信号すらまだ復旧していないが、瓦礫は綺麗に片付けられ、時間を掛ければ復興は確実な状況が看て取れた。

港には神社のある小さな岬があり、そこを回り込んで鹿折地区という所に足を踏み入れると状況は一変する。

地獄は人の心の中にあるが、、気仙沼で地獄は眼前にありしかも深く静かに進行していた。
映像がニュースから消え失せても、地獄のような状況は消え失せている訳では決して無い。

流れてきて放置されたままの巨船、折り重なった車、破壊された工場、人の営みがあったとは信じられない姿に変わった住宅、そこに暮らていた方々の生活の匂いのする様々なもの。
一瞬にして命を断ち切られてしまった人々の、渦巻くような重い霊の気配が青い空の底に漂っている。

20110704気仙沼1s-.jpg  20110704気仙沼2s-.jpg


震災当時の映像を見直してみると、その時からこれらの状況は今まで殆ど変わっていないことが確認できた。
誰かが持ち主のいない車に時計を置き、3時31分で止まっている。
何気なく写した時計は2時46分で止まっている。
後にこの時間がそれぞれ、津波に襲われた時間、地震が起きた時間であることを知り言葉が出なかった。

20110704気仙沼3s-.jpg


3月11日のこの時から全ての時間は凍りつき、歩みを止め、悲しみだけが澱のように重みを増して沈潜している。

こういう状況は気仙沼だけで無く、何百という地域で同じように進行しているに違いない。

「頑張ろうニッポン」のキャッチフレーズは薄ら寒く、空には悲しみの風が吹き抜ける。
全ては自分の想像の域を超え、気仙沼で心身ともにズタズタになりながら、せめても出来ることは、人々の失われた記憶を深く悲しむ事だけだと思えた。
あらゆる日常性や秩序が消滅した時に、残るものは記憶の狭間にある光景だけだ。

グーグルが被災地の状況をアーカイブするプロジェクトを開始した。それは気仙沼から始まるという。
いずれは、どの地域も遅かれ早かれ復興に進むだろうが、綺麗に再整備されるであろう町は記憶を伝えない。
悲惨さから目を背けることも一つのありようだし、悲惨さに身を委ねる事も一つの生き方だ。
良寛の「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候」が身近に感じられる。

このblogでは、言葉で伝え切れない様相を、せめても画像で伝えたい

気仙沼の刻むことを止めた時間の中で、3月11日の漆黒の闇の海の底からの無数の慟哭の声を感じながら、あてども無く彷徨よった。
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2011年06月23日

杉本博司とIZU PHOTO MUSEUM

IZU PHOTO MUSEUMは、気恥ずかしい名前のクレマチスの丘という三島を見下ろす富士の裾野にある。

杉本博司が作庭した坪庭が売りの、美術館自体を見に行くのが目的だったが、案に相違して期待は大きく外れた。

多くの人が、杉本博司自身がIZU PHOTO MUSEUMの設計自体に関わっていると誤解しているが、この建物はもともとは「木村圭吾さくら美術館」といい、設計は鹿島建設。
それを写真美術館に改修し、知恵者が杉本のネームバリューに目をつけてオープニングに「杉本博司 ─ 光の自然」をセット。あわせて客寄せに作庭を依頼したのが実態だろう。
建物の内装改修も行われているようだが、特筆するものはなく平凡な構成で杉本の関与は不明。

二つの坪庭、エントランス部分の石組みが杉本の手になるものだが、いつも韜晦的で且つ魅力的な彼の文とは裏腹に、単なる小賢しく愚昧な趣味の世界のものに過ぎない。
杉本は「作庭記」で近くの原分古墳との類似性を述べ、意図的に縄文に近いイメージに誘導し自分の坪庭の意図を補強している。
しかし、原分古墳は7世紀のもので、7世紀には石室とまったく違う既に曲水の宴も催された作庭が行われていた。こちらのほうは杉本の世界ではない。


20110620IZU PHOTO MUSEUM坪庭1s-.jpg  20110620IZU PHOTO MUSEUM坪庭2s-.jpg  20110620IZU PHOTO MUSEUM前庭s-.jpg


オープニングの「光の自然」の前身の「Lightning Field」を以前見たが、これはいつも意表をつく写真表現を切り開くよい意味での杉本だった。

小堀遠州は作庭、茶の湯、華道と自在に才能を発現し、夢窓疎石も書と仏教と作庭と夫々の世界を繋ぎながら驚嘆するものを残している。

フィールドを広げたくなるのは、芸術家の常だが、自分の拠って立つところから踏み出すには血を流して切り結ぶ覚悟が必要で、形として残るものはそれ自体が露に才能を語り、言葉で言いくるめることは不可能だ。
杉本はすっかり大御所になり、崇め奉られていて批判もされないのだろうが、旦那芸はそろそろ止めて、これ以上あまり建築に手をださないほうが身のためだと思われた。

展示は「富士幻景 富士にみる日本人の肖像」が行われていたが、庭の残念な印象が強く、わずかに森山大道の作品が記憶に残る。
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2011年03月09日

渡邊洋治の旧第三スカイビル

軍艦マンションの名前で有名な旧第三スカイビルは、「GUNKAN 東新宿ビル」として再生し、その再出航と銘打ったイベントの見学会に行ってみた。

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このビルは鬼才とも狂気の建築家とも言われた渡邊洋次が設計し、今の微細さを競い合うようなひ弱な建築とは全く異なり、ただ建築に自分の情念を迸り出す事だけを目的として設計され、それが疑問の余地なく許された類稀な時代の置き土産だ。

彼の設計事務所では日常的に暴力が振るわれ、血が流れているのは日常の風景だったと言う逸話もある。
ものを表現して、怨念ともいえる情念を実体化するにあたっては当たり前の行為だろう。

渡邊は帝国海軍出身でこのビルが、そのときのオマージュであることは容易に想像できる。
ペントハウスは隠喩もへったくれもなく、船のブリッジそのものであり、高架水槽はまるで魚雷のようにそこにに抱えられている。

ビルの外装は再塗装されて、少し風化しかけていた外観を一新している。
銀白に鈍く輝いていた外装は、当り障りのない毒気を抜かれた鼠色に塗り替えられ、テナントスペースも白一色になっている。
しかし、噴出した情念は色で宥めるには手強すぎ、変わる事のない形態は40年経った今も渡邊洋次の咆哮を伝え続ける。

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ユニット化された外観を、モダニズムという耳障りの良い系譜の延長でコルビジェから吉阪を経て渡邊洋治を語る事は全くふさわしくない。
潜んでいた異形のものがコルビジェではでロンシャンに顕れ、吉阪では大学セミナーハウスに顕れ、渡邊では先達の伏流水だったものが、当初から赫々と明示的に奔流する。

現在、日本郵船歴史博物館で「ル・コルビジが目指したもの 船→建築」と言う展覧会が五十嵐太郎の監修で開催されているが、軍艦ビルは見事に素通りされていた。
このビルは気の利いた言葉では語れない。

渡邊洋治は、丹下の都庁はとっくに解体されたが俺のビルは残っているぜと、墓の中でほくそ笑んでいるに違いない。
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2011年03月06日

戦艦三笠

戦艦三笠を横須賀に見に行った。

20110201戦艦三笠s-.jpg  20110201z旗s-.jpg


言わずと知れた日露戦争のバルチック艦隊との日本海海戦での旗艦で、この海戦での秋山真之の七段構えの作戦や、東郷平八郎の敵前大回頭など逸話に事欠かない。

迂闊な事に行って見て初めて、三笠は水に浮かんだ船ではなくて陸上に固定されている事を知った。
日本海海戦後は佐世保港内で爆破沈没、ワシントン条約で廃艦が決定。
さらに関東大震災での大浸水をへて、その後の保存運動の高まりで保存が決定したのは大正14年で、てっきり、太平洋戦争後の連合軍が意趣返しに固定化したものと思っていたが、下甲板に土砂やコンクリートを注入し二度と海に浮かぶ事の無い記念碑としたのは日本政府だった。

太平洋戦終戦は上部構造物は取り払われ、アメリカ軍のダンスホールや水族館が設置され、さらに金属部分は盗難にあい無残な様子だったという。
その後、国民的な復元運動が起こり、昭和36年に復元された。

従って、今の上甲板の構造物の威容は全てレプリカで、厚さ35cmを越える無垢の鋼板で守られていた司令塔も叩くと、板金細工ペコペコというむなしい音がする。

艦内は展示スペースとなっていて部分的に船室などが再現されており、展示スペースでは、東郷平八郎、乃木希典、秋山真之、広瀬武夫などの日露戦争ゆかりの人々の資料を見ることが出来る。

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館内の復元された施設や、日露戦争の説明パネルよりも、一番目を引いたのは関係した軍人の書だ。

たまたま、「日露戦争に見る武士道」という特別展が行なわれていて、書を含めて乃木希典の資料もかなりあった。
乃木希典は司馬遼太郎の作品では旅順攻略でいたずらに兵を死なせた無能極まる将とされているが、一方ではその風貌と明治天皇への殉死により神格化もされていて、実像は分からない。
司馬が唯一讃えているのは、詩人としては一級の才能に恵まれていたという事だ。

常設部分に東郷の書や秋山、広瀬の書簡、メモが展示されていた。
東郷の書は日露戦争開戦の有名な「皇國興廢在此一戦 各員一層奮勵努力」が揮毫されていた。
この書を晩年にいたるまであちこちに残しているようだが、どのような思いで書いたのか。

司馬が褒めた、自詩を揮毫した乃木の書は王羲之の行書風だ。
広瀬の書簡はいかにも、朴訥な字で、危険を顧みず部下の生命を案じて被弾して戦死したと言う人柄がにじみ出る。

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この三人はいずれも軍神となったが、その死に様を考えると複雑な感情が沸き起こる。
一万五千トンの巨体が記念艦として残り続ける期間と、三軍神の書が残り続ける期間とどちらが長いか。
抽象化された軍神はその裏にある、残酷な血まみれの記憶も白い晒された骨のようになり、希薄化し、危うく美しいもののよう見えてしまう事になる。

それは三笠の姿が、厳密に最高度の機能性だけを求めて構成されているが故に、殺戮の機械でもあるにもかかわらず、人々を感動させるに足る美しさを持ってしまっているのと同じ事かもしれない。

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三軍神が稀にしか思い出されない今の世の中は、多分良い時代なのだろう。
NHKで放映された司馬遼太郎の「坂の上の雲」効果で、三笠の見学者は年15万人に増えているという。

見学を終えた15万人は、何を胸に残して船を下りるのか。
それは、二度と水に浮かぶことのない三笠のあずかり知らぬところだろう。
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2011年01月13日

伊東忠太の中山法華経寺聖教殿

これも佐倉・成田街道を歩いていた時に遭遇。

市川市中山にある、日蓮宗大本山の中山法華経寺の奥まった場所にある聖教殿。設計は伊東忠太。
内部には、日蓮自筆の立正安国論などが納められているという。
昭和6年(1931)竣工。

20101229聖教殿s-.jpg  20101229聖教殿彫刻s-.jpg  20101129聖教殿狛犬s-.jpg

おなじみの怪獣、聖獣、インドの仏塔形式と魑魅魍魎の世界までは行かないが伊東ワールドだ。
築地本願寺の意匠と比べると大人しいが、それでも予想外の場所で突然遭遇すると、かなり驚かされる。

これも街道歩きのご利益だろう。
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2011年01月12日

黒川紀章の佐倉市庁舎

佐倉・成田街道で、佐倉市内の海隣寺坂を歩いていると高台に記憶にある建物が現れた。
1971年に竣工した黒川記章設計の佐倉市庁舎だ。
すでに立替決議が行われている、中銀カプセルタワーよりも竣工は一年早い。

低層部はワッフルスラブだが、高層部はボイドスラブとなっており、構造をそのまま表している外観も、一世を風靡したメタボリズムの時代の作品らしい。
いかにもユニット化されているような外観だが、内部は外観と異なり大部屋だ。
しかしデザインに対する思想を直裁に表そうとした、昔の良き時代が微笑ましい。

20110104佐倉市庁舎外観s-.jpg  20110104佐倉市庁舎外観2s-.jpg  


事務棟に隣接して45度振って議会棟が接続している。
これもこの頃流行ったHPシェルで、内部はまだあまり古さを感じさせない。
外観は明らかに、サーリネンのJFK空港のTWAターミナルへのオマージュが看て取れる。しかしこの議会棟は記憶になかったので、黒川の当時のデザインの揺れを表しているようで印象深い。

20110104佐倉市庁舎議会棟屋根s-.jpg  20110104佐倉市庁舎議会棟s-.jpg  20110104佐倉市庁舎議会棟内部s-.jpg


職員の方に伺うと事務棟はあまり大きなトラブルもなく使われているようで、なんとなくほっとする話だ。
エントランスホールの天井に市章があしらわれている。
鐶を、花びらに見立てて、桜の花を形どったもので、佐倉だから桜にこじつけるのもそれはそれでよい。

20110104佐倉市庁舎エントランスホールs-.jpg

黒川紀章も既に没して、三年が過ぎた。
市役所の受付の方が、この建物の設計者の名前を間違いなく口にしてくれたのは墓の中の黒川も悦んでいる事だろう。

建築に若い主義主張があり、未来は開けていた時代を懐かしんで建物を去った。
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2010年12月04日

国会議事堂特別参観

議会開設120周年記念で、12月4,5日国会議事堂の特別参観が行なわれ、衆参同時に見れる貴重な機会なので、足を運んだ。
そこには様々な不思議が横溢していた。

国会議事堂の建設に当たっては日本で最初の設計コンペが行なわれて、宮内省技手の渡辺福三の案が一等になり、その後、それを元に多くの人が関わって、今の姿になったとも、吉武東里が実質的に設計したともいわれている。国のこのような建物の設計者が曖昧なのもかなり不思議だ。
施工者に至っては、僅か70年前の竣工にもかかわらず、信じられない事だが、不詳ということになっている。これは秘密保持とも言われるが実態は不明だ。

tousen01s.jpg  20101204議事堂外観1s-.jpg  20101204議事堂外観2s-.jpg


議場や、大臣室はTVでもおなじみだが、議長応接室や建設費の1/10が費やされたという豪華絢爛な天皇御休所などは普段はお目に掛かれないものを見ることが出来る。
天皇御休所の折上格天井には鳳凰があしらわれ、天子南面に従い天皇の席は真南を向いている。
通常参観の時は天皇御休所は写真撮影絶対禁止らしいが、何を今更と、不思議。

20101204議場s-.jpg  20101204大臣室s-.jpg  20101204御休所s-.jpg  20101204御休所天井s-.jpg


不思議で気になるデザインも横溢している。
玄関ホールの吹き抜けには北澤ステンドグラスが製作したステンドグラス。この議事堂で繰り返し現われるモチーフだが何のシンボルだろうか。
外壁の主要な場所、天皇御休所、さらには中庭の噴水にも何か不明な場所にも。

20101204ステンドグラスs-.jpg  20101204外装意匠s-.jpg  20101204御休所入り口s-.jpg  20101204中庭噴水s-.jpg


議場の上部が、日本で一番大きいと言われる見事なステンドグラスのトップライトとになっている事も驚きだ。
議事堂は威信をかけて、殆ど全てのものを国産でまかなったが、このトップライトとドアノブ、そして何故か郵便受けが国産でまかなえなかったと。

20101204議場ステンドグラスs-.jpg


国会議事堂の地下には、秘密の地下通路があるとも言われ、秘密の地下鉄駅の話も流布されている。
つい先日菅首相が首相官邸と公邸が地下で繋がっていることを口を滑らせた程なので、ありそうな話ではある。

国会議事堂は去年、一昨年と全面的に外装の洗浄が行なわれて見違えるように真新しくなったが、12月3日日閉幕した臨時国会は、無残な程の政治の劣化を見せ付けた。
国会議事堂には色々な不思議があるが、この劣化を政治家が恬として恥じないことが、最大の不思議だった。

外ではお土産が売られていて、日本再起と書かれた「ねじれ国会おこし」が秀逸だった。

20101204ねじれ国会おこしs-.jpg


今年ブームだった坂本龍馬は、「日本を今一度、洗濯いたし申し候」と言ったが、建物だけでなく、政治家の心根も是非洗濯してもらいたいと思いつつ議事堂をあとにした。
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2010年11月03日

旧三河島汚水処分場喞筒場の悲喜劇

平成19年、下水道分野の遺構では初めて重要文化財に指定された三河島汚水処分場が、東京都文化財ウィークで公開されていたので見学に。

沈砂池及び量水器室は地中埋設されているが、それを見せるための作業か前庭の部分は工事中だ。

20101104汚水処分場外観s-.jpg


濾格機室は、内部は外から窺うだけだが、未整備状態。

20101104ろ格機室s-.jpg


メインのポンプ室では平成11年まで稼動しており、10台のポンプとクレーンを見る事が出来る。
これらは、いかにも機械マニアが見たら悦びそうな形態だ。

屋根を支える鉄骨はアーチ状の変形キングポストトラスで、最小の部材で設計しながらも、美的な追求を行いたいという技術者の気持が窺える。

20101104ポンプs-.jpg  20101104pポンプ室梁s-.jpg


ポンプ室には実際は、せっかくの重要文化財の価値を台無しにする無様な耐震補強がされており、ポンプが居並ぶ壮観さを眺める事は出来ず、単なる耐震装置の展示場のようだ。
この補強は、重文指定後なされたという事で、建物の安全のためとはいえ安易で恥ずべき、最悪の補強方法に思われた。
他に幾らでも耐震・免震の方法はあった筈で、キングポストトラスの設計者の心から今の技術者が如何に隔たり劣化しているかを示す反面教師となっている。

20101104耐震装置s-.jpg  20101104耐震装置2s-.jpg


重文などの建築物の現状変更は厳しく制限されており、文化財保護法には以下のように規定されている。

(現状変更等の制限)
第43条 重要文化財に関しその現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、文化庁長官の許可を受けなければならない。ただし、現状の変更については維持の措置又は非常災害のために必要な応急措置を執る場合、保存に影響を及ぼす行為については影響の軽微である場合は、この限りでない。

勿論この補強は、軽微なものとは到底思えず、法令的な許可を受けて行われたのだろうが、内容を吟味せずに安易に許可してしまったのは、今度は判断力が徹底的に欠如した行政の劣化だ。

これらの施設は、大正11年3月26日に運用を開始した。
翌年の関東大震災にも耐え、太平洋戦争の戦火をも潜り抜けた建物が、重文指定された為に耐震補強で台無しにされたのは現代の悲喜劇としか言いようが無い。

解説書には建物のデザインはセセッションの影響を受けている、とあるが、取り立てて言うほどの事は無い。

20101104外観s-.jpg


それよりも、ポンプ室背面の、今は使われていない砲身のような鋳鉄管が圧倒的な存在感だ。
そう古いものではないようだが、止むを得ずその使命を終えざるを得なかったモノとしての恨みの咆哮が聞こえ、同時にお粗末な現代建築技術を嘲笑ってるかのようだった。

20101104送水管s-.jpg  20101104送水管2s-.jpg
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2010年10月19日

村野藤吾の旧千代田生命本社ビル

村野藤吾設計の旧千代田生命本社ビルは1966年竣工年竣工し、千代田生命の破綻をへて2003年に目黒区総合庁舎に生まれ変わった。

東急東横線の車窓からも見えるアルキャスト縦のルーバーが美しく微妙な陰影を奏でる建物を、今頃になって見学した。

池に面して休憩室があり、隣の和室の「しじゅうからの間」が誰でも使えるスペースとして公開されている。
40年を過ぎた適度な古びだが、網代をあしらった光天井や、モンドリアン風の障子の洒脱なデザインはそのままで眼を楽しませる。
他にも二つの和室と茶室があり、区民が誰でも使えるのは贅沢な事だ。

20101019千代田生命外観s-.jpg  20101019しじゅうからの間s-.jpg


吹抜けにある螺旋階段は、最初の踏み込みが浮き上がり、微妙な曲線を繋いでいく扱いは正に階段の名手の村野藤吾の面目躍如。
しかし、この階段は改修時に安全の為に余分な手摺が着け加えられ、不要とも思われるアクリルパネルで囲われて、プロポーションと軽快さを大きく損なってしまい、かなり残念だ。

20101019階段s-.jpg  20101019階段2s-.jpg  20101019階段3s-.jpg


正規のエントランスのアルミのキャノピーを抜けると、ビアンコ・カラーラの純白の大理石に囲まれた床と壁の空間が迎えてくれる。
目線を切った腰窓から反照する光と、細やかなモザイクタイルのトップライトから落ちる光は心を安らげる。

20101019キャノピーs-.jpg  20101019ホールs-.jpg  20101019トップライト2s-.jpg


アクリルの照明器具も、灯りを入れた時はさぞやと思われる。

20101019ホール照明s-.jpg


屋上は区によって緑化されており、十五のメッセージと村野藤吾とをもじって目黒十五庭と名付けられている。
村野藤吾は、その出来栄えに苦笑しているかもしれない。

20101019屋上庭園s-.jpg


村野の建物も、次々解体されている。
関西の新歌舞伎座、そごう、関東の早稲田大学文学部、松寿荘その他数え上げれば限が無い。

その中で、稀な変転をして生き残ったこの旧千代田生命本社ビルは何時までも区民に愛されると共に、村野建築の粋と繊細さを示し続けてもらいたい。

20101019千代田生命外観2s-.jpg  20101019千代田生命外観3s-.jpg
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2009年11月25日

平林寺紅葉狩り

武蔵野の名刹平林寺。
紅葉の名所で、1万5千坪の境内林はよく武蔵野の風情を残し、国の天然記念物。

燃える色、透ける光、潤う彩り、を求めて雨上がりの絶好の日和に繰り出した。

平林寺紅葉1s-.jpg  平林寺紅葉3s-.jpg  平林寺紅葉2s-.jpg  

想いに違わず、紅葉たちは更科姫のように絢爛豪華、はたまた土の褥に密やかに、この日の為に、燃えて散る。

平林寺紅葉5s-.jpg


翌日26日は、ここ平林寺で両陛下が紅葉狩りをされたことを知る。
さもありなん。

 うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ

平林寺紅葉4s-.jpg  平林寺紅葉6s-.jpg
タグ:平林寺 紅葉
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2009年09月10日

渡辺豊和の秋田市体育館

気に掛かっていても、中々見る機会の無かった渡辺豊和。
たまたま自転車旅行で思いがけず、秋田でその奇想にお目にかかった。

この建物を、渡辺は自分のHPのトップページの写真としているので、自信作なのだろう。次のように書いている。

 <縄文首都のオリンピア神殿>
・縄文(日本初発の生命原理)美の建築空間化
・親子亀(東アジアの聖獣)に封入されたエジプト神殿。
「縄文土器の典型、火焔土器は数匹の蛇がとぐろを巻き絡み合い互いに火焔を天に向かって噴き出しているような造形である。これは日本の造形(芸術)でもっとも世界性が高いであろう。この建築は火焔土器を巨大化させたものである。」

火炎土器は牽強付会だが、親子亀は全く当たっている。

竣工は1994年なので、それなりの古び方で、外光が無造作に差し込むドーム状のアリーナもかなり使いにくそうだ。
しかし渡辺は最低限の機能だけは確保して、ひたすら機能的に無意味な造形を付け加え続け、機能的な無意味さは美の領域では逆に極めて有意味かも知れず、白銀の輝きの大屋根は鈍色のコンクリートとよく調和する。

20090910秋田市体育館外観s-.jpg  20090910秋田市体育館サブアリーナs-.jpg


毛綱毅曠も、自分のコスモロジーを形態に還元したような造形で印象的だが、渡辺豊和の建築も殆ど同じ構造を持っている。
彼の場合も失われたもの、嘗て存在したもの、そして胎内回帰への願望のように見受けられる。

20090910秋田市体育館メイイアリーナs-.JPG  20090910秋田市体育館ロビーs-.JPG  20090910秋田市体育館回廊s-.JPG

秋田に咲いた、渡辺豊和の混濁した夢は、読み解く人を混乱させるに十分な呪術を掛け続けていた。
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2009年08月27日

シャトーカミヤの地下セラー

シャトーカミヤは明治時代に神谷傳兵衛が日本初の本格的ワイン醸造所として牛久に設立し、昨年三つの棟が重要文化財に指定された。
改めて、水戸街道を歩いた折に立ち寄ってみた。

主屋の建物はルネサンス様式で、設計は岡田時太郎。
この設計者は軽井沢の三笠ホテル、そして今は安藤忠雄が改修設計して、国際子供図書館として生まれ変わった上野の帝国図書館も設計している。

20090827シャトーカミヤ外観s-.jpg  20090827シャトーカミヤアーチs-.jpg  20090827シャトーカミヤディテールs-.jpg


主屋はそれなりに目を楽しませるが、見所は貯蔵庫の地下セラーの暗闇だ。

ライトウェルから導入される外部からの光が、暗闇をいよいよ闇に沈め、光の粒子は壁や樽に付くビロードのようなラコジウム・セラーレという黒黴に吸い取られ、息をのむような漆黒の世界を作り出す。

20090827シャトーカミヤ地下1s-.jpg  20090827シャトーカミヤ地下2s-.jpg  20090827シャトーカミヤ地下3s-.jpg


これからも決して、開けられる事の無いワインたちは何時までも眠り眠って熟成の時を刻み、その眠りを密やかに太陽神が見守り続けている。

20090827シャトーカミヤ地下5s-.jpg  20090827シャトーカミヤ地下4s-.jpg


現在シャトーカミヤでは、ワイン自体はボトリングしかしていないが、美味しい地ビールを製造しているので、暗闇の世界から闊達なビールの世界への復帰も楽しい体験だ。
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2009年07月25日

北の鎌倉の文人達

大正時代、北の鎌倉といわれた我孫子の手賀沼に白樺派を中心とした文人たちが集い、文化村が形成された。

講道館柔道の創始者の嘉納治五郎がまず別荘を構え、甥の民芸の柳宗悦を誘い、白樺派の論客でもあった宗悦が志賀直哉をさそった。
さらに武者小路実篤とバーナード・リーチも、手賀沼に越してきた。

彼らの手賀沼時代は数年から七、八年だが、志賀直哉の暗夜行路を始め多くの作品が、この手賀沼のほとりで生み出されることになる。

手賀沼のほとりから魅力的な天神坂を上ると、柳宗悦が住んでいた三樹荘と、嘉納治五郎の別荘の跡地がある。
三樹荘の建物は今も健在で、主は変わり、歌人で郷土史家の村山祥峰氏が住まわれているが、昔は足元まで湖が広がっていたという高台から見る光景は、大正の文人達には一つの桃源郷だった。

20090625天神坂s-.jpg  20090725三樹荘s-.jpg  


近くには、志賀直哉邸の一部だった茶室が保存されている。
少し陰鬱さが感じられる、敷地は暗夜行路の執筆に相応しかったのだろうか。

20090725志賀直哉茶室s-.jpg


また、白樺文学館がすぐ傍に開設されている。
小ぶりな建物にオラクルの社長だった佐野氏が収集した文人達の様々な作品が展示されている。
特にあまり見る事の出来ない彼らの書や、自筆原稿が興を惹き、地元に密着した文学館として着実に運営されているように見受けられた。

20090725白樺文学館外観s-.jpg  20090725白樺文学館内観s-.jpg


手賀沼のほとりに、大正の文人達の集まり散じていく気配を感じながら、湖の風に吹かれると、時代をタイムスリップしたような不思議な感覚が湧き上がった。

20090725手賀沼s-.jpg
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2009年07月20日

海王丸、日本丸、初代日本丸総帆展帆:一刻限りのシンデレラ

横浜でY150と連動して、18日から海フェスタが始まっている。

20日の海の日は、この一日だけ海王丸、日本丸、初代日本丸の日本を代表する帆船のフルセイル(総帆展帆)が行われた。
三隻まとまって見られるのは稀有のこと。強く食指が動き繰り出した。

訓練生が、マストに登り、ロープを操る様は力を合わせて一つの事を達成するシンプルな汗の息吹と清涼感と溢れている。

20090720フルセイル1s-.jpg  20090720敬礼s-.jpg


蒼い海、碧い空を背景に、風をはらんだ白帆の貴婦人の命は短く、フルセイルはシンデレラの夢の舞踏会のように、僅か一時間。

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日本丸メモリアルパークにある初代に足を運んだ時は既に、帆は下ろされつつあったが、三隻の帆船へ陸の方から登檣礼を贈りたかった。 

20090720初代日本丸s-.JPG
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