2012年03月22日

丸の内:Time Still

行幸通りは東京の玄関口の東京駅と和田蔵門を繋ぐ。正式には東京都道404号皇居前東京停車場線。
極めつけのハレの空間である筈だが、常時は空漠として何故かここを歩く人は殆どおらず、一般車の通行は禁止されている。

ロラン・バルトが「表徴の帝国」で皇居を意味の欠如した東京の空虚な中心と呼んだが、そこへ繋がる道はあからさまにその輝く空虚さを暗示する。

20120321御幸通りs-.jpg


行幸通りの地下はギャラリーとなっている。地上のハレの行幸通りに対して、元は駐車場だった地下のケとしての行幸地下ギャラリー。
無機的な長大な壁面で『東日本大震災 復興応援写真展 「3・11以前」』が行われている。
丸ビルと新丸ビルの間にあるにも関わらず人通りは極めて少なく、写真は寂しげだ。

20120321御幸通りs-.jpg 


失われた二度と戻らない光景の中の、笑顔の写真が時間を止める。

20120321復興応援写真展s-.jpg


地上に戻ると、風に桜をあしらったFlagが揺れている。
日本の誰が、世界の誰に、何のために発信しているのか。主語も目的語もなく何処までも続く曖昧性。
震災への、外国からの支援に感謝するFlagと言うが。

 さくらさくらさくさくらちるさくら

20120321FLAGs-.jpg


今年の春に、JPタワーとして竣工する東京中央郵便局。
保存された外壁に残る時計の見えない針は、2時46分を指している。きっと。

20120321中央郵便局時計s-.jpg  20110704気仙沼3s-.jpg


変らない日本、止まる時間。
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2012年01月12日

小幡散歩

上州の甘楽町にある小幡は、織田信長の次男織田信雄から八代に亘り織田氏が治めた水の豊かな小さな城下町だ。

美称のようにも思える、甘楽という曰くありげな名前の出自も、半島からの渡来人のカラ(韓=加羅)の由来とする説もあり歴史を感じさせる。

上信電鉄の上州福島駅から、道を辿る途中に鎌倉街道の標識があって気に掛かるが、調べても未だに不明のまま。

20120110鎌倉街道道路標識s-.jpg


日本名水百選の雄川堰沿いは桜並木となっており、春は所々に残る白壁の旧家の佇まいに花が映える様が目に浮かぶ。

大手門跡を横に、レンガ造の大正時代の養蚕倉庫を改築した歴史民俗資料館があり、世界遺産登録を目指している「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つとなっている。

20120110小幡街並みs-.jpg  20120110甘楽町歴史民俗資料館s-.jpg


藩主が通った中小路は14mもある闊達な道で、石組みが美しく残り、昔の勘定奉行高橋家の白壁の家が景観を引き締める。
入口には、笑門のお札を貼った注連飾り。

防衛上とも下級武士が上級武士に出会うのを避ける為とも言われる、喰い違い郭も珍しい。

20120110中小路s-.jpg  20120110高橋家入口s-.jpg  20120110喰い違い郭s-.jpg


群馬で唯一残存している大名庭園という楽山園は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と言う論語の一節から名付けられた。
桂離宮を模したとも言われており、借景の山を戴いた回遊式の林泉は、辿る道筋に従い次々に視線と景観が変化して飽きる事がない。
今は三月末までの修復復元工事が進んでおり、工事完了後はより一層人々の誇りの場所になる事だろう。

20120110楽山園入口s-.jpg  20120110楽山園1s-.jpg  20120110楽山園2s-.jpg


町を歩くと、小中学校の生徒が一人残らず挨拶をしてくれる。
このような町は少なくないが、聞くと学校でそのように指導を受けているとの事。
特に旅行者に対してでなく、町で会う人に全て挨拶を交わす。
住んでいる土地に対する親しみと、地域の繋がりや誇りはこのような日常の些細な事から受け継がれる。

日本を歩くと疲弊した地方も多いが、この町は伝統と経済が程よく整合し、何より暮らしている人々の町に対する矜持と自信が問わず語りに窺える。

小さな城下町小幡は、歩いていても空気がキリリと引き締まって感じられた事だった。
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2011年10月31日

黄金町バザールの心地よさ

今年で4回目になる黄金町バザールは、アートと町との様々な関わりで地域の活性化を目指す活動だ。
http://www.koganecho.net/koganecho-bazaar-2011/

開催地域は日ノ出町から黄金町、初音町に掛かる一帯で地名の佳名にも関わらず、少し前まではいわゆる青線として名高い特飲街だった。
そこから脱却し、地域ぐるみでアートでの再生を目指して、その動きは成果を見せ始めている。

今年は横浜トリエンナーレの特別連携プログラムということで、期待を持って足を運んだ。

京急の高架下には数年前から日ノ出スタジオ(設計者:飯田善彦)があり、今回高架下新スタジオ(設計者:元シーラカンスの小泉雅生)と黄金スタジオ(設計者:みかんぐみの曽我部昌史)との二つのスタジオも新設され、地域の取り組みへの力の入れ方が見て取れる。
これらの三つのスタジオは、土地のいかがわしさを拭い去った小奇麗な建物だが、残念ながら周りの猥雑な建物に立ち向かう力を見ることは出来ない。

20111023日ノ出スタジオs-.jpg  20111023高架下新スタジオs-.jpg  20111023黄金スタジオs-.jpg

黄金スタジオにはstudio BO5の設計の割り箸を使ったウォールがあり、接着剤と簡単なクリップで構成されている工夫が目を引いた。

20111031割り箸ウォールs-.jpg


区域には27の展示場が散在し、そこをアトリエとしている若いアーティストが作品を展示している。
アトリエは昔の特飲街の店を改修したものが大部分なので、その空間を垣間見るのも面白い。
間口一間、奥行き二間半の極小のスペースの二階建ての店が連続し、勝手気ままなコンテンポラリー系の作品が壁面に描かれた空間は、窓だけが昔の「ちょんの間」の記憶を残している。

20111031スタジオスペースs-.jpg  21111031初音ウイングs-.jpg


高架下には、会期終了後の引き取りてを探しているという、さとうりさの巨大な作品「メダム K」が特に目をひきつけた。
メダムはマダムの複数形で、Kは黄金町だろう。ここで働いていた女性達へのオマージュ。
製作者のさとうさんが、作品に金色の鈴を縫い付けていた。
会期終了までに訪れた人に縫い付け続けて貰い、作品の変貌を見てみたいと。
協力して、慣れぬ手つきで一つの鈴を縫い付けた。
濃紺の「メダム K」が、黄金の希望に満ちたゴールデンベアーになるかもしれない。

20111023メダムKs-.jpg


少し前の雰囲気を残す路地や店はそこかしこにあり、その猥雑さが心地よい。
陽が落ちると、昼間の取ってつけたような気配は払拭され、昔の気配が何処からともなく舞い戻り、染み付いたてだれた光とほの暗い闇が辺りを包み込む。

20111023路地s-.jpg  20111031竜宮旅館s-.jpg  20111031夕刻s-.jpg  20111031竜宮旅館2s-.jpg


黄金町バザールは、ひと時の宴だが、夜の帳と共に街は無限に循環して生気を取り戻す。
まだまだ青臭いアートという言葉ではなまなか太刀打ちできない、饐えた気配が心地よく漂っていた黄金町だった。
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2011年09月02日

宇津ノ谷と蔦の細道

宇津ノ谷は東海道の鞠子宿と岡部宿の間にあり、交通の要衝から取り残され今も鄙びた佇まいを見せている。
以前東海道を歩いた時に、宇津ノ谷峠を越え、平行して走る平安時代の古道の蔦の細道が気掛かりだったが、先を急いで辿ることが出来なかった。

この細道を辿るため、宇津ノ谷を10年ぶりに訪れた。

宇津ノ谷集落は道路が整備され、少し様変わりしていたが、もと立場茶屋だった有名な御羽織屋の上品なおばあさんは、90歳になったと言うがまだ健在で、秀吉とのいわれを昔と変わらず語ってくれた。
この集落の時間は、どこか優しく、ゆったりと流れているようだった。

20110809宇津ノ谷集落s-.jpg


この谷あいには明治、大正、昭和、平成の夫々時代を映す4つのトンネルがあり、明治のトンネルは日本初の有料トンネルとしても有名で登録有形文化財にもなっている。
レンガ造りのトンネルには、ひんやりとした明治の風が吹き抜ける。

20110809明治のトンネルs-.jpg


旧東海道で峠を越えて、岡部宿側に出ると 木和田川沿いに蔦の細道公園があり、兜堰堤と言われる明治時代の小規模なロックフィルダムが復元されたものを見ることが出来る。

公園が尽きると蔦の細道への入り口がある。

20110809蔦の細道1s-.jpg


蔦の細道は平安時代からの主要道だったが、秀吉の小田原攻めの時に東海道の経路が作られて廃れたと言われている。
しかしそこには業平の東下りの歌に惹かれて、多くの歌人、旅人が訪れている。

  駿河なるうつの山べのうつつにも 夢にも人に逢わぬなりけり (伊勢物語:在原業平)

  我がこゝろうつゝともなしうつの山 夢にも遠きむかしこふとて (十六夜日記:阿仏尼)

  ひと夜ねしかやの松尾の跡もなし 夢かうつつか宇津の山ごえ (兼好法師)                                                             
歌もさることながら、この道を描いた伝俵屋宗達の「蔦の細道図屏風」の夢でありうつつでもある完全な抽象性に満ちた美しさには驚く他は無い。
風景が歌を作り、歌が、絵を生成し、絵が再び人の心に風景を植え付ける。

  わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く・・・

六曲一双の屏風は、左隻の左端と、右隻の右端が繋がるように描かれており、いと暗う細き蔦の細道は目の前で無限に循環する。
蔦の葉に見立てた烏丸光広の流麗な散し書きの賛の一つには、「茂りてぞ むかしの跡も 残りける たとらはたとれ 蔦のほそ道」と書かれている。

蔦の細道.jpg 


現代の蔦の細道は、昔からのものが判り易い姿で残存していてそれが陽の目を見たわけではない。
昭和40年台に小学校教諭だった春田鉄雄氏が、わずかに残る手掛りから荒れ放題の山を、住民の方々と大変な苦労して復元整備した。

 20110809蔦の細道2s-.jpg  20110809蔦の細道3s-.jpg


一つの風景は、完全無欠の美の姿で永劫に残る作品を導き出し、その風景は長い時代を経て現代の道の復元に繋がっている。
蔦の細道に関わった人々が残そうとしたものは、幾重にも重層し、沈み込んでは浮き上がり、想いは蔦の細道図屏風のように巡りめぐって浮遊する。

道を辿って、明るい現代に辿り着いた時、古からの一吹きの風が耳元を通り過ぎた。

  たとらはたとれ 蔦のほそ道
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2011年08月06日

奥の正法寺

奥の正法寺は、水沢市(現:奥州市)にある曹洞宗の寺で、盛時は永平寺、総持寺と並び曹洞宗の東北地方における第三の本寺となっていた。
日本三大奇祭で有名な、黒石寺蘇民祭の黒石寺から3kmほどしか離れていない。

山号は大梅拈華山円通。
曹洞宗に大梅拈華録というものがあるようだが、詳細は判らない。拈華は勿論拈華微笑の拈華だろう。

正法寺の見ものは、日本一といわれる巨大な茅葺屋根で、平成18年に10年にわたる改修を経て蘇ったと言う。

惣門からは、しかしその巨刹は全く窺えない。
人を拒否するような、そして人のスケールを無視した蛇紋岩の石段があり、惣門を通るとさらに巨石の石組みによる次の階段が待ち受ける。
かろうじて見える茅葺屋根が、少しずつ視野を拡げてゆく。
明らかに、拒絶の意思に満ちた石段だが、その気持ちは分からないでもない。

20110704正法寺1s-.jpg  20110704正法寺2s-.jpg  20110704正法寺3s-.jpg


巨刹の本堂は、高さが26mもあるが、写真では残念ながらそのスケール感は全く分からない。

20110704正法寺本堂s-.jpg  20110704正法寺伊達家家紋s-.jpg  20110704正法寺屋根s-.jpg


実際に見て初めて分かることが多いが、何故このような場所に、何故茅葺なのか、何故感覚を麻痺させるほど圧倒的な大きさなのか。全ては宗教のなせる業なのか。

全て理解を超える建物だった。
ラベル:正法寺
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2011年07月27日

菅江真澄を詣でる

菅江真澄は、宝暦4年(1754年)三河に生まれ、29歳で理由不明の出奔をして、各地を放浪。多岐にわたる民俗学的著作を残しながら、特に東北に多くの足跡を残している。
常被りとも言われて、生涯に亘って頭巾を身から離さず、南部藩の隠密とも言われたり謎も多い人物だ。

sugae_intro.jpg


旅する巨人と称された宮本常一は、東北を訪れた時に真澄の墓を詣で、「宮本常一 写真・日記集成」で目にしたその写真が印象的だった。
宮本は菅江真澄遊覧記全五巻を翻訳したのも、民俗学的価値はさることながら、旅を通して共通の視点を持つ彼が菅江真澄に込めていただろう思いを察することが出来る。

宮本常一には及びもつかないが、秋田に行った折に、江戸時代の歩く達人の墓だけを詣でるために足を運んだ。

墓は、羽州街道沿いの出羽の柵と言われた秋田城にほど近い、寺内という場所にある。
墓の横には市の説明板が立てられているが、一つだけ西向きに立っている墓の扱いは粗末に見受けられた。

20110704菅江真澄墓2s-.jpg  20110704菅江真澄墓1s-.jpg


真澄は二十代から七十代まで、流浪の旅を送り、墓には「卆年七十六七」と彫られていて、正確な年齢もわからない人生だった。
しかし人々には好かれたらしい。

生涯妻を持たなかったが、漂白の生活は孤独であっても不幸であったわけではない。

柳田国男は「斯んな寂しい旅人が一人あるいていたのである」と書いているというが、そうだろうか。
きっと貫き通した孤独は、笑みに満ちた孤独だっただろうと思い、手を合わせて墓を後にした。
ラベル:菅江真澄
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2011年07月13日

象潟

象潟を訪れた。
以前象潟の鉾立から鳥海に登り、吹浦に下った。残念ながら今回は見ることが出来ない。
串田孫一が「もう登らない山」という本を書いていた、鳥海はもう登らない山かもしれない。

九十九島・八十八潟の象潟は不思議な地名だ。
昔は蚶方といい、蚶(キサ)とは蚶貝の事であり、蚶が沢山採れる地方の意味で蚶方→蚶潟→象潟となったという説があるがどうだろう。
象潟の名刹蚶満寺は蚶が満る所から蚶満寺とも云われたというが、司馬遼太郎が言う蚶方の方が万に変わり更に満という説ももっともらしい。

芭蕉が訪れたのは1689年で(元禄2年)その後1804年(文化元年)に象潟地震があり、2mほども土地が隆起して芭蕉の見た風景は失われたのは良く知られる所だ。

ここも能因法師の後を西行が訪ね、西行の跡を芭蕉が訪ねるという構図が見事なほど鮮明だ。


芭蕉は西行の跡を辿るが、まず能因法師が3年間幽居したという能因島。

 象潟に舟をうかぶ。先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、・・・(奥の細道)

  世の中はかくても経けり蚶潟の 海士の苫屋をわが宿にして (能因法師)

能因法師の幽居は怪しいが、能因島には島の名前を記した碑が立っている。

20110702象潟s-.jpg  20110702能因島s-.jpg


奥の細道で芭蕉は、蚶満寺に向かう。ここは西行。

 むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
 江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。(奥の細道)

   蚶方の桜は波に埋もれて 花の上漕ぐ海土の釣り舟 (西行)

桜の老木は無く、西行法師の歌桜という何十代目かの若木があった。 
西行は二度東北を旅しており、次の歌も二題話か。

  松島やおしまの月はいかならん ただきさかたの秋の夕ぐれ (西行)

 此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に盡て、南に鳥海天をさゝえ、其陰うつりて江にあり(奥の細道)

鳥海も見えず、それらしき方丈は見当たらなかったが、蚶満寺は神功皇后を乗せた船が三韓征伐のあと漂着し、応神天皇を生み終えたという伝説があり、山号も皇后山干満珠寺。
開山者は、これも東北ではなじみの深い慈覚大師円仁。

蚶満寺に舟つなぎ石が残っており、これはありふれた物でなく、神功皇后の乗った船を繋いだ石であるとすれば、畏れ多い事ではある。

20110702蚶満寺参道s-.jpg  20110702舟つなぎの石s-.jpg


さて、芭蕉だが、
 松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
  象潟や 雨に西施がねぶの花 (奥の細道)

あいにく、空は晴れ渡り、合歓の花も終わっていた。
しかしこの一句で、西施の故郷の中華人民共和国浙江省諸曁市と象潟は姉妹都市、松島とも姉妹都市、象潟のあるにかほ市の市の花は合歓の花。

20110702西施像s-.jpg


象潟は 晴れて西施は見当たらず、風が吹き抜けていた。

20110702象潟2s-.jpg
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2011年07月11日

気仙沼の凍った時間

今日で震災から4ヶ月が経った。
原発の収束は見えないが、ニュースはもっぱら復興にシフトしてことさらに明るさを装っている。
そんな中、何が本当なのか、何が起きているのか確かめてみたい思いから数日前、気仙沼を訪れた。

気仙沼の駅は高台にあり、近所では地震の被害も津波の被害も殆ど見受けられず何事も無いような日常だが、港に降りて行くに連れて少しずつ様相は変わってくる。
港は津波の被害で1階が破壊された建物が大部分で、信号すらまだ復旧していないが、瓦礫は綺麗に片付けられ、時間を掛ければ復興は確実な状況が看て取れた。

港には神社のある小さな岬があり、そこを回り込んで鹿折地区という所に足を踏み入れると状況は一変する。

地獄は人の心の中にあるが、、気仙沼で地獄は眼前にありしかも深く静かに進行していた。
映像がニュースから消え失せても、地獄のような状況は消え失せている訳では決して無い。

流れてきて放置されたままの巨船、折り重なった車、破壊された工場、人の営みがあったとは信じられない姿に変わった住宅、そこに暮らていた方々の生活の匂いのする様々なもの。
一瞬にして命を断ち切られてしまった人々の、渦巻くような重い霊の気配が青い空の底に漂っている。

20110704気仙沼1s-.jpg  20110704気仙沼2s-.jpg


震災当時の映像を見直してみると、その時からこれらの状況は今まで殆ど変わっていないことが確認できた。
誰かが持ち主のいない車に時計を置き、3時31分で止まっている。
何気なく写した時計は2時46分で止まっている。
後にこの時間がそれぞれ、津波に襲われた時間、地震が起きた時間であることを知り言葉が出なかった。

20110704気仙沼3s-.jpg


3月11日のこの時から全ての時間は凍りつき、歩みを止め、悲しみだけが澱のように重みを増して沈潜している。

こういう状況は気仙沼だけで無く、何百という地域で同じように進行しているに違いない。

「頑張ろうニッポン」のキャッチフレーズは薄ら寒く、空には悲しみの風が吹き抜ける。
全ては自分の想像の域を超え、気仙沼で心身ともにズタズタになりながら、せめても出来ることは、人々の失われた記憶を深く悲しむ事だけだと思えた。
あらゆる日常性や秩序が消滅した時に、残るものは記憶の狭間にある光景だけだ。

グーグルが被災地の状況をアーカイブするプロジェクトを開始した。それは気仙沼から始まるという。
いずれは、どの地域も遅かれ早かれ復興に進むだろうが、綺麗に再整備されるであろう町は記憶を伝えない。
悲惨さから目を背けることも一つのありようだし、悲惨さに身を委ねる事も一つの生き方だ。
良寛の「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候」が身近に感じられる。

このblogでは、言葉で伝え切れない様相を、せめても画像で伝えたい

気仙沼の刻むことを止めた時間の中で、3月11日の漆黒の闇の海の底からの無数の慟哭の声を感じながら、あてども無く彷徨よった。
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2011年06月23日

杉本博司とIZU PHOTO MUSEUM

IZU PHOTO MUSEUMは、気恥ずかしい名前のクレマチスの丘という三島を見下ろす富士の裾野にある。

杉本博司が作庭した坪庭が売りの、美術館自体を見に行くのが目的だったが、案に相違して期待は大きく外れた。

多くの人が、杉本博司自身がIZU PHOTO MUSEUMの設計自体に関わっていると誤解しているが、この建物はもともとは「木村圭吾さくら美術館」といい、設計は鹿島建設。
それを写真美術館に改修し、知恵者が杉本のネームバリューに目をつけてオープニングに「杉本博司 ─ 光の自然」をセット。あわせて客寄せに作庭を依頼したのが実態だろう。
建物の内装改修も行われているようだが、特筆するものはなく平凡な構成で杉本の関与は不明。

二つの坪庭、エントランス部分の石組みが杉本の手になるものだが、いつも韜晦的で且つ魅力的な彼の文とは裏腹に、単なる小賢しく愚昧な趣味の世界のものに過ぎない。
杉本は「作庭記」で近くの原分古墳との類似性を述べ、意図的に縄文に近いイメージに誘導し自分の坪庭の意図を補強している。
しかし、原分古墳は7世紀のもので、7世紀には石室とまったく違う既に曲水の宴も催された作庭が行われていた。こちらのほうは杉本の世界ではない。


20110620IZU PHOTO MUSEUM坪庭1s-.jpg  20110620IZU PHOTO MUSEUM坪庭2s-.jpg  20110620IZU PHOTO MUSEUM前庭s-.jpg


オープニングの「光の自然」の前身の「Lightning Field」を以前見たが、これはいつも意表をつく写真表現を切り開くよい意味での杉本だった。

小堀遠州は作庭、茶の湯、華道と自在に才能を発現し、夢窓疎石も書と仏教と作庭と夫々の世界を繋ぎながら驚嘆するものを残している。

フィールドを広げたくなるのは、芸術家の常だが、自分の拠って立つところから踏み出すには血を流して切り結ぶ覚悟が必要で、形として残るものはそれ自体が露に才能を語り、言葉で言いくるめることは不可能だ。
杉本はすっかり大御所になり、崇め奉られていて批判もされないのだろうが、旦那芸はそろそろ止めて、これ以上あまり建築に手をださないほうが身のためだと思われた。

展示は「富士幻景 富士にみる日本人の肖像」が行われていたが、庭の残念な印象が強く、わずかに森山大道の作品が記憶に残る。
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2011年03月09日

渡邊洋治の旧第三スカイビル

軍艦マンションの名前で有名な旧第三スカイビルは、「GUNKAN 東新宿ビル」として再生し、その再出航と銘打ったイベントの見学会に行ってみた。

20110226第三スカイビル1s-.jpg  20110226第三スカイビル2s-.jpg  20110226第三スカイビル4s-.jpg 


このビルは鬼才とも狂気の建築家とも言われた渡邊洋次が設計し、今の微細さを競い合うようなひ弱な建築とは全く異なり、ただ建築に自分の情念を迸り出す事だけを目的として設計され、それが疑問の余地なく許された類稀な時代の置き土産だ。

彼の設計事務所では日常的に暴力が振るわれ、血が流れているのは日常の風景だったと言う逸話もある。
ものを表現して、怨念ともいえる情念を実体化するにあたっては当たり前の行為だろう。

渡邊は帝国海軍出身でこのビルが、そのときのオマージュであることは容易に想像できる。
ペントハウスは隠喩もへったくれもなく、船のブリッジそのものであり、高架水槽はまるで魚雷のようにそこにに抱えられている。

ビルの外装は再塗装されて、少し風化しかけていた外観を一新している。
銀白に鈍く輝いていた外装は、当り障りのない毒気を抜かれた鼠色に塗り替えられ、テナントスペースも白一色になっている。
しかし、噴出した情念は色で宥めるには手強すぎ、変わる事のない形態は40年経った今も渡邊洋次の咆哮を伝え続ける。

20110226第三スカイビル7s-.jpg  20110226第三スカイビル5s-.jpg  20110226第三スカイビル6s-.jpg  20110226第三スカイビル内観s-.jpg


ユニット化された外観を、モダニズムという耳障りの良い系譜の延長でコルビジェから吉阪を経て渡邊洋治を語る事は全くふさわしくない。
潜んでいた異形のものがコルビジェではでロンシャンに顕れ、吉阪では大学セミナーハウスに顕れ、渡邊では先達の伏流水だったものが、当初から赫々と明示的に奔流する。

現在、日本郵船歴史博物館で「ル・コルビジが目指したもの 船→建築」と言う展覧会が五十嵐太郎の監修で開催されているが、軍艦ビルは見事に素通りされていた。
このビルは気の利いた言葉では語れない。

渡邊洋治は、丹下の都庁はとっくに解体されたが俺のビルは残っているぜと、墓の中でほくそ笑んでいるに違いない。
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