2010年09月13日

「歩く巨人」と「旅する巨人」

「歩く巨人」というと、誰でも知っている伊能忠敬で、55歳で隠居に入り、70歳で第十三次測量を終えるまでのの15年間、地図作成のために日本全国を縦横無尽に渉猟した。

20090411伊能忠敬像s-.jpg


井上ひさしが小説の「四千万歩の男」で、何故か忠敬の歩幅を「二歩で一間」と計算して、計算も合わないがもっぱら伊能忠敬は4万kmを歩いたという事になってしまっている。

今は歩幅は69センチと分っているらしく、四千万歩でなくて五千万歩いてその距離は3万5千キロという説もある。

とにかく、歩く巨人である事は間違いなく、今年生まれ故郷の佐原にある様々な資料が国宝指定されたのも面目躍如の感がある。

「旅する巨人」の名称は、在野の民俗学者だった宮本常一に付けられている。
宮本は生涯に伊能忠敬の4倍の16万キロを歩いたと言われているが、その根拠はよく分らない。
一日平均40km歩き、延べ調査日数が4000日というのが根拠らしい根拠と言える。

20100913宮本常一修正1.JPG


宮本の庇護者だった渋沢敬三が、「日本列島の白地図に宮本常一の足跡を赤インクで垂らしていったら、日本列島は真っ赤になる」と言ったという話もあまりにも有名だ。

民俗学に取り組み始めたのは20歳を過ぎてからで、73歳で亡くなるまでの50有余年で16万キロという事になるのだろう。

ところで、現代の日本人男性の一日の平均歩数は逐年低下しているがそれでも、7300歩を越えている。平均歩幅は75cmなので年間2000kmも歩いている事になる。
5歳から、70歳まで日常的に歩けると仮定するとその延べ歩行距離は13万キロとなり、伊能忠敬はおろか宮本常一にも引けを取らない。
旅で歩いたかどうかは別として、殆どの人は歩く巨人であるわけだ。

一昔前、岩波文庫創刊六〇周年記念アンケートの「私の三冊」で司馬遼太郎は三冊の本の中の一冊に、宮本常一の「忘れられた日本人」を選んでいる。
司馬遼太郎の43巻に亘る「街道をゆく」は宮本の原案といわれ、二人は宮本の晩年にすれ違っているが不思議な関係だ。

宮本の死後、宮本常一写真・日記集成が発刊された。
生涯に亘って撮影した膨大な10万枚の写真の一部が掲載され、所謂芸術写真では無いが、記録者としての無色透明な貴重な映像を見る事が出来る。
その中には、普通の日本人の真に滋味溢れる表情や、昔は誰もがそうだった、笑いがこぼれた子供たちの映像もある。

別の一枚に、秋田にあるこれも江戸時代の旅する巨人の一人の菅江真澄の墓が写っている。
宮本が詣でた理由は分らないでもない。

20100913宮本常一撮影子供.JPG  20100913菅江真澄墓.JPG


宮本の故郷は周防大島で、大正12年に16歳で大阪に出る時に、父親の善十郎が十か条のメモを取らせたと言われている。
その2は、「村でも町でもあたらしく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。・・・高いところでよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。」
その4が平凡だが、「時間のゆとりがあったら出来るだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。」
特筆すべきはその3で、「金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。」

なるほど。
16万キロの足跡の原点は、意外と単純な事かも分からない。
伊能忠敬も「歩け、歩け。続ける事の大切さ」と言ったとか。

単純なものこそが、持続的で揺ぎ無い力を発揮する。
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2010年09月03日

束芋の「ててて」展

束芋の「ててて」をギャラリー小柳で見る。

横浜での「断面の世代」を見逃して、朝日新聞の連載小説の「惡人」の挿絵以外は初見だが熱狂的なファンも多いという。

表現方法とか、拘った材料とか、意表をつく立体的な作品や、展覧会名になった、手に毛髪を絡ませた作品など、通底するのは不気味さと腐臭をはなつ病的な偏執性だ。
この作家の作品は目でなく、見る人の生理に絡みつく。しかも大よその人にとっては神経をざらつかせ、ザワザワと鳥肌を立てさせるような生理だ。

束芋ててて2.jpg  束芋ててて.jpg


瞬間的にルイス・ブニュエルとサルバドール・ダリの合作の「アンダルシアの犬」を思い浮かべた。

アンダルシアの犬.jpeg

束芋の世界は、鋭い剃刀で切り裂かれる眼球や、不気味に掌をうごめく蟻と手を結ぶ。

藤原新也がインドでの衝撃的な死体の写真に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」と文を添えているが、その言葉を借りれば「束芋の作品は賞賛されるほど自由だ」という事になるだろう。
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2010年08月28日

重要文化的景観

酷い残暑と、国民を放置して権力闘争に明け暮れ、迷走する政治にほとほと疲れ果てるこの頃だが、「重要文化的景観」なるものを知った。

5年ほど前に制定されていて、今は22件が指定されている。
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shurui/keikan.html

keikan_photo10.jpg  keikan_photo28.jpg  keikan_photo53.jpg


場所を見ると、傍を通り過ぎた程度のことはあっても知らないものが殆どだが、一般観光地とは違ってかなり魅力に溢れている。
四万十川が五件も指定されているのも、どういう選定基準なのか不思議に思う。

こういう取り組みは、助成金も交付されるはずなので、悪いことではないだろうがかなり重複した活動が見受けられる。

同じ文科省が管轄しているもので、建物に特化した「重要伝統的建造物群保存地区」と言うものもある。
http://www.bunka.go.jp/1hogo/shoukai/main.asp%7B0fl=list&id=1000000177&clc=1000000153%7B9.html

国交省管轄では、古都保存法に基づいて「美しい日本の歴史的風土 100選」と言うものも選定していて、「重要伝統的建造物群保存地区」とかなり重複している。
http://www.kotohozon.or.jp/pdf/100sen_kekka.pdf

調べるとこういうものは、まだまだありそうだ。
いずれにせよお上から認定してもらうのが目的ではなくて、実際そこでどのような町つくり、景観の維持が図られているかが重要なのは言うまでもない。
何にも指定されていなくても、素晴らしい町であり心打つ景観であるところは多く、逆に指定されていても惨状を呈しているところも少なくない。

町も、景観も国が作ったのではなくて、長い時間を掛けてそこに実際に住む人が醸成し、目に見えぬ努力をして維持され続けているる。

しかし、色々なリストを見ると、狭いと思っている日本は途方もなく広い事を改めて思い、通りすがりの光景の裏に隠された人々の忍耐強い営みに感謝の念を払わずにはいられない。
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2010年06月09日

森山大道新作写真展「NAGISA」

銀座のBLD GALLERYの写真展。

今まで、一人の女性を撮り下ろすことのなかった森山大道が、一年掛けて渚ゆう子を撮った作品の展示会。

場所は都会であり、雪の山形であり、海辺であり、と様々だ。

何故ゴールデンポップスの歌姫、渚ようこなのかという事も不明だが、どの画面にもザラリとした不協和音を流している被写体としては、二人の組み合わせは最適だ。

数枚の写真に宇野亜喜良が、オープニングの時にコラボレーションしてイラストを加筆している。
当意即妙なイラストにも感心するが、もう76歳だからその衰えを見せない気力にも感服する。

森山と、宇野と、渚の取り合わせは展覧会で爛れた祝祭的な雰囲気を十分に醸し出してる。

sc0036.jpg  sc0035.jpg  nagisa.jpg


森山と渚の、会場での対話映像が公開されている。
http://mediadefrag.jp/project/nagisa/

殆ど語らない渚の、「嬉しかった」という言葉と森山の「時間が全て」という最後の言葉は共に胡散臭い。しかし胡散臭さを越えて作品を作り終えた、共同正犯としての語られない通底する意識が見てとれる。

森山特有の、粒子を荒らした写真が二枚大伸ばしで展示されていた。
荒らした粒子の中の渚は、なぜか不機嫌な安堵に包まれているようだった。
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2010年04月03日

競馬場でお花見を

横浜の根岸森林公園には、340本の桜が植えられている。

本数は比較的少ないが、公園の斜面に密植されているために、霞がたなびくような景観を生じる。
まさに、花の雲 鐘は上野か浅草か、だ。

20100403根岸森林公園s-.jpg  20100403幹桜s-.jpg


この公園は元根岸競馬場だったものが戦後の米軍の接収、返還を経て1977年に公園化された。
古くから育っているように見える桜は、1973年に三菱グループの寄付で植樹されており、その樹齢は僅か37年に過ぎず、寿命が60年と言われる染井吉野としては丁度壮年期だ。
三菱グループの寄付も37年経って、益々人々を楽しませ続けている。

桜の広がる地域とは別の敷地に、モーガンが設計し1930年に建設された競馬場の一等観覧席が廃墟として残存し、その姿は圧倒的な存在感に溢れている。

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スタンドの周りには広場が設置され、植えられてからまだ日の浅い桜が添えられている。
これらの桜は、まだ何十年かは十分な樹齢があり、スタンドと日本のこれからの行方を見守っていくだろう。

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しかし、咲いた桜は散らねばならず、スタンドと、桜と、人と、日本とどれが早く散るものか。

 散る桜 残る桜も散る桜。(良寛)
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2010年03月27日

「博物館でお花見を」から西行に花たてまつる

開花宣言の後の花冷えで、戸惑い勝ちの桜だが、東博は特別展の幕間つなぎの「博物館でお花見を」。
展示品を見るのも良し、花を愛でるのも良し。

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国宝室の花下遊楽図屏風も、浮かれ踊って艶やかだ。

20100327花下遊楽図屏風s-.jpg  20100327花下遊楽図屏風2s-.jpg


館内に桜をモチーフにした様々な名品が展示されて、いつも見過ごしてしまうものも新たに楽しめる。
北斎は夜鷹かと思ったら「桜花に鷹」

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明日は陰暦の2月16日で、桜に生き、桜に死した西行の命日にあたり、今日は西行忌。

 仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば

西行の墓のある弘川寺まで行くことは叶わぬので、せめて今日は現し世から博物館の選取り見取りの花を奉りたい。

20100327東博桜1s-.jpg  東博桜2s-.jpg  東博桜3-.jpg
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2010年03月22日

東京大学総合研究博物館の「命の認識」展

東京大学総合研究博物館で行われている「命の認識」。

遺体科学の教授で、年何百体もの動物をひたすら解剖する遠藤秀紀の総指揮で会場が構成されている。

遠藤は、かなり気負って次のように語り始める。
・・・あなたを苦悩のどん底に陥れる空間を東大の博物館に創ってみたいと思っていた。「命の認識」は、博物館を快楽やサービス提供の場などと称した昨今の悪しき意思を根本から破壊して、そこに個人が命を認識するまでの根源的苦悩の場を広げることを、私が試みたものである。・・・

導入部に晒された骨ではなく、遠藤が「死の誕生」と呼ぶアジア象の死産胎児、キリンの死産胎児の体幹が出迎える。
遠藤は、アジア象についてこう述べる。
・・このゾウを見て、 神秘でも、畏怖でも、謎でも、ときには嫌悪でも、多くの人に命を源泉とした特異な感覚が生まれるならば、この命展はひとつの出発点を獲得したといえるのである・・・

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学術的な意味合いをまったく捨象して、一室に分け隔てなく大きな一枚のテーブルに整然と並べられた夥しい骨は語らないことで命を語る。

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商業主義的な博物館展示への強いアンチテーゼから、展示には一切のキャプションがなく、皮肉たっぷりに「日本人的な勤勉さに対する、わずかばかりの添えもの」とされたリーフレットがあるだけだ。

写真家の石内都が「ひろしま/ヨコスカ」で、やはり一切の説明を排除したことを思い出す。


隣の会場では、キュラトリアル・グラフティ展が行われており、動物でない、人にかかわる考古学的なものをキュラトリアルワークとして展示している
展覧会を企画開催することはcurateだが、標本の保全と活用もcurateということを知る。

考古学としての、人の頭蓋骨も正にキュラトリアルワークの成果として展示されており『古人骨頭骨「名品」展示』とあった。名品だ。

動物も縄文人も、命を認識するまでの根源的苦悩の場を広げる、というよりも一種の秘やかな快楽に繋がっているように感じられた。

中原中也の「骨」
 ホラホラ、これが僕の骨だ、
 生きてゐた時の苦労にみちた
 あのけがらはしい肉を破つて、
 しらじらと雨に洗はれ
 ヌックと出た、骨の尖。
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2010年03月10日

三月十日東京大空襲・井上有一遺墨展

すみだリバーサイドホールで、東京大空襲の三月十日を挟んでたった3日間だけ開催された、井上有一の遺墨展。
既に伝説の書家になっているが、井上は東京大空襲に遭遇し仮死状態から奇跡的に生還した。
昨日は、今や殆どの人が記憶の彼方になっている、東京大空襲から65年目だ。

どの書も叫びに満ち、咆哮し、地の底から、唸りをもって湧き上がるようだ。
書で何が表現出来て、何を伝えられるのかと言う事に対する、有無を言わさぬ回答がある。

木をクリッド状に組んだシンプルな会場も素晴らしい。

201003010井上有一展1s-.jpg  20100310井上友一展2s-.jpg  20100310井上友一展画s-.jpg


晩年の井上が、禅の高僧の遺偈を臨書した作品も展示されている。

自分の残る命を知った時に、荒々しい筆捌きから遺偈に移行し、最後は宮沢賢治の物語を稚拙に見える字で書き残している。

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井上が残そうとしたものは定かでは無いが、定かでないものが深く強く心を打つ。愛も風も正に日々の絶筆だ。

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死後発見されたという、井上自身の遺偈の通り、彼は無法を追って無法に至れたか。

 井上ゆいげ.jpg

 守貧揮毫
 六十七霜
 欲知端的
 本来無法
 八二・十月廿七日
     有一
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2010年02月13日

Living Form―生きている形

銀座のポーラミュージアム・アネックスは、いつも小粋な展覧会で楽しませてくれ、ぶらりと銀座を歩いたあとに立ち寄るには絶好だ。

今回は「Living Form―生きている形―チャック・ホバーマン展」

この構造デザイナーは銀座のポーラビル自体の動くファサードの設計者。
バンクーバーの冬季五輪も開始されたが、今は誰も思い出すこともないソルトレイクシティ冬季五輪の開会式の可動アーチも設計した。

会場に入ると、ミュージアムのある三階のファサードを実際に動かせる装置があり、誰でもLED照明を七色に変えながらファサードを開閉させる事が出来る。
当たり前だが、自らが外からの効果を確認できないのは、ちょっと残念。

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会場内も実際に、動かして構造体の変容を確認できる模型もいくつか置かれている。
バックミンスター・フラーのジオデシック・ドームの可動版もあり、ハリセンボンのような形がチャック・ホバーマンの技術によって変容する姿を見るのも面白い。 

20100213ドーム1s-.jpg  20100213ドーム2s-.jpg

技術が芸術や美に短絡的に結びつくものでは無いが、その志向が無ければ何者にもなりえないのは当たり前の事だ。

Living Formは、時々それに届いて、際どく美のように見える事がある。
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最初で最後のノーマンズランド

”『No Man’s Land』 創造と破壊@フランス大使館 − 最初で最後の一般公開”と銘打ったアートイベントが行われているフランス大使館旧館へ。

入り口でピンクのストライプにからめとられた、プジョーが迎えてくれる。
国内外、有名無名、玉石混交のインスタレーションは確かに学芸会。
建物全体がキャンバスとなり、オモチャ箱をひっくり返したようで今宵限りの大騒ぎ。
しかし、普段はあまり聞くことの無い、フランス語の会話があちこちで流れるのも、何となく耳に心地よい。


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この建物は50年以上も前の1952年に、フランスの建築家ジョゼフ・ベルモンが若干24歳の時に設計している。
デザイン的には内外部に、そこここにコルビジェの影響が伺える。
内部の執務空間は驚くほどに質素で、多分大使の執務室と思われる部屋も簡素な空間で、作り付けの家具があるだけだ。

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50年前のモダンを纏った大使館は解体されて、跡地には多分50年も持つすべのありようのない、野村不動産のマンションが建てられてしまう。

ポール・クローデルはこの敷地に、フランス大使として1921年から六年間を過ごした。
解体される建築の記憶は速やかに消失し、人の記憶はそれより永らえ、さらに土地の記憶は何時までも生き続ける。

ポール・クローデルが生きていたなら、最初で最後の一般公開をどの様な思いで見守っただろうか。
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